昭和が終わりに近づいた87年、アイドル界に変革をもたらした「おニャン子クラブ」が2年半の活動を終えた。第1期の主力メンバーだった立見里歌(51)と内海和子(50)が、嵐のような日々を回想する。
──つい最近、2人でステージに立ったんですよね?
立見 そうなの! 何で今まで2人でやらなかったんだろうって。
内海 いや、でもあれだけ練習したのに、本番になったら、やっぱり立見はズラしていたよ(笑)。
──おニャン子きっての歌唱力を誇る内海和子と、その“逆張り”の立見里歌の組み合わせは、調整が難しそうです(笑)。ちなみに、ユニット名は?
内海 漫才の「ますだおかだ」みたいに、「うつみたつみ」にしたらって言われました(笑)。
──さて、85年にスタートした「夕やけニャンニャン」(フジテレビ系)は、アイドル史の金字塔になりました。
立見 当時はメチャメチャ大変でしたねえ。月曜から金曜の帯番組に、レコーディングや雑誌の取材。睡眠は2~3時間だったかな。
内海 私、大学の授業中に寝てたかも(笑)。
──熱烈なファンも多かったと思います。
内海 私の場合は女子が多かったんですよ。家の前に寝袋で寝ている人がいて、母親が開けたら女の子。
立見 私は解散後に就職して、ポニーキャニオンの名古屋支社にいたんですよ。そこでも家の前に女の子が立っていて、上司に相談したら「女の子だから泊めてあげたら?」って。
──そういう問題じゃないですよ(笑)。さて、近年のアイドルは「恋愛禁止令」が絶対条件ですが。
内海 私たちの頃もありましたよ。恋愛は「夢の中だったらしていいよ」って。
立見 ディスコもお酒もタバコも、男の人と会うのも禁止って言われてました。
内海 楽しいことは全部ダメだったんです(笑)。
──そうした抑圧の日々だと、メンバー間のゴタゴタとかは?
立見 あれだけ人数がいたら、確執もあったでしょうけど、でも、陰湿なイジメはなかったかな。
──ここ数年、初期メンバーの新田恵利(49)と国生さゆり(50)が「それぞれの派閥を率いてバトルしていた」って話していますが。
内海 気づかなかった。
立見 恵利ちゃんとさゆりちゃんの2人だけが気にしていたんじゃないんですか(笑)。
──ちなみに、2人が仲のいいメンバーは?
立見 初期メンバーはけっこう集まるんですよ。私と「ニャンギラス」を組んでいた白石麻子ちゃん(47)とか。
内海 生稲晃子(48)が六本木でご主人と鉄板焼きのお店をやっているので、ゴハン食べるならアッコの店に行くことも多いですね。
立見 演歌一筋の城之内早苗ちゃん(48)や、唯一のハーフだった山本スーザン久美子ちゃん(50)ともよく会います。
──おニャン子はソロとしても毎週のようにチャートの上位を占めていた。86年4月には「私は里歌ちゃん」も1位。ただ、歌い出しの不安定な音程は語りぐさ(笑)。
立見 私、本当に音痴なんです。歌い出しのカウントも何回いったら‥‥って言われてるのに、合わない。
内海 あの歌はあえて、ヘタさを出すために歌いにくくしていたと思います。
──そして86年11月には、内海和子のソロデビュー曲「蒼いメモリーズ」が発売。オリコン初登場3位の記録ですが。
内海 悔しかったですね。当時、所属していたホリプロでは「山口百恵もできなかったデビュー曲の快挙」と言われましたが、おニャン子の他の子はほとんどが1位。どうして私は3位なのって泣きましたもん。
──泣いたといえば、石橋貴明との「テレビでの公開バトル」もすごかった。石橋が2人の顔が入ったパネルをへし折ったり、番組の途中で席を立ったり‥‥。
立見 私も彼もヤンチャでしたねえ。もともと控え室でもチョコチョコッとふざけていて本番、タカさんが椅子を蹴ったら内海の脚に当たって、和子が泣いたのが、きっかけで‥‥。
──番組でも、反論する姿が名物になっていった。
立見 最初は私たちの「お礼参り企画」だったんだけど、途中から本気モードになって、CMが入って、そのあとスタッフが気を遣って、一切接触がなくなりました。
内海 思いのほか騒動が大きくなりましたね。
立見 今でも、どこかでタカさんと対談やれないかなあと思っていますよ。
──解散から30年目を迎えて、あらためて「おニャン子」とは何だったでしょう?
内海 私、子役の時から芸能界にいて、自分の意思でオーディションを受けたのは「おニャン子」だけなんです。それが30年過ぎても、こうして語られることに感慨深いです。
立見 私は弟に「金脈⇒人脈」って言われる。メンバーやスタッフが今でも仲がよくて、そうした面でも参加してよかったです。
──メモリアルイベントがあることを期待します。