「騒動後に来たのは桑名正博さんだけだった」
「自分の中ではこれはセーフだと思っていたのですが‥‥」。昨年8月22日、暴力団との“黒い交際”を明らかにして島田紳助が突如、芸能界を引退した。あれから1年、“時代の寵児”を失った芸能界は、何事もなかったように華やかな光を放ち続ける。はたして、紳助騒動は何だったのか。その深層に迫った─。
実家を頻繁に訪れる“理由”
島田紳助(56)が、表舞台から姿を消して1年以上が経過した。これまで、一部週刊誌に登場したことはあっても、その動向は、ほとんど伝わってこなかった。
京都市郊外のとある駅から歩くこと7~8分、地元住民しか歩いていなさそうな、ごく普通の京都の閑静な住宅街の一角に紳助の実家は今もある。
周辺には、いくつかの商店が点在する。そのうちの一軒を訪ねると、そこの主人が、最近の紳助についてポツポツと話し始めた。
「ああ、2~3日前に来ていたよ。月イチくらいかな、ちょいちょい帰ってきてるよ。足の悪いお母さんが一人だけだからね。心配して最近はよく顔を見に来てるよ」
昨年まで紳助の実家には、母親だけでなく、長年、国鉄に勤務した父親の長谷川民雄さんも同居していた。ところが昨年9月に、肺炎で入院。10月20日に87歳という年齢で亡くなったため、現在は高齢の母親が一人で実家を守っているという。
近所の商店主も話す。
「あそこの家はお父さんがしっかりした人でねえ。そのお父さんが去年亡くなられはったでしょ。そんなだから、紳助さんもやっぱり心配だろねえ。この前、車に乗っているところを見たよ」
紳助が、ここまで実家を頻繁に訪れるようになったのは、民雄さんが京都市内の病院に入院してからのことだった。
テレビ業界でも“屈指の視聴率男”として「行列のできる法律相談所」(日本テレビ系)や「クイズ!ヘキサゴン2」(フジテレビ系)などでの司会のみならず、タレントユニット「羞恥心」をプロデュースするなど八面六臂の活躍で長年、東京と大阪を往復する生活を送ってきた紳助。当然、実家を訪れる機会は激減し、家庭ももっぱら妻任せ。そんな紳助にとって、父親の入院は、“青天の霹靂”だった。
くしくも、芸能界を電撃引退した紳助はその後、都内のホテルなどを転々としたあと、沖縄滞在の拠点だったリゾートマンションで籠城生活を送っていた。すぐにマスコミにその居場所が知られるところとなり、外出もままならない日々が続いていた。
当時取材に当たっていた記者が振り返る。
「リゾートマンションの最上階で食料を運び込ませて完全蟄居生活でしたが、その後、支援者に用意してもらった民家に姿を隠しました。米軍のゴルフ場なら見つからないということで、関係者を通じて頼み込んだんですが、どうも断られたみたいで、この時は相当ストレスがたまっていたようです」
しかし、突然の“身内の異変”に、紳助は沖縄のマンションから姿を消した。
「その後の消息は、一切わからなかったのですが、実は、父親の看護のために京都市内のホテルに滞在していた。しかも、父親の死去もすぐに周囲に知らせず密葬で済ませたほど。やはり引退騒動で、おおっぴらに葬儀することもままならなかったようです」(在阪芸能記者)
そうした年老いた両親に対するじくじたる思いがあるのか、紳助は大阪の自宅と京都の実家を往復する生活を送っているのだ。
今でも亡き父の民雄氏の表札がかかる実家のインターホンを押すと、中からは老人よりずっと若い女性の声で、「留守を預かって留守番をしているので何もわからない」
と言うばかり。
紳助の身内が、今も順番で母親の面倒を見ているようなのである。