タイ、バンコクの隣、ノンタブリー県にあるバンクワン刑務所。ここは懲役30年以上の長期刑や終身刑、そして死刑判決を受けた囚人だけを収容する、いわば「凶悪犯専門」の施設だ。そこで14年間の服役生活を送った日本人がいる。いったい何をしでかし、なぜ出所することができたのか。その一部始終を本人が激白する。
施設の一角に常設されたギャンブル場では、ヨレヨレになった紙幣を握りしめた囚人たちが賭博に興じている。だが、鼻薬をかがされている刑務官らは見て見ぬ振りだ。所内ではヘロインやアイス、ヤーバーといった覚醒剤が乱用され、ジャンキーによるモメ事もあとを絶たず、さらには麻薬密売グループ同士の抗争が繰り広げられる──。
そんな最低最悪の刑務所に収監された日本人が、竹澤恒男氏(65)だ。竹澤氏は02年12月、当時タイで流行していた覚醒剤、ヤーバーの密輸に関与した疑いで、タイのドンムアン空港で身柄を拘束され、一審の求刑はなんと、死刑。結審では死刑こそ免れたものの終身刑を受け、移送されたのが、この地獄の刑務所だった。
竹澤氏は神戸市灘区出身。高校を卒業後、地元の医療機器メーカーに就職したが、
「当時交際していた女性が亡くなったショックから競馬にのめりこむようになり、あとはサラ金地獄というお決まりコース。それが全ての始まりでしたね」
目先の金欲しさに金がありそうな事務所に忍び込むが逮捕され、執行猶予付き判決を受ける。25歳の時だ。
「会社を辞めてしばらく放浪したあと、東京のパチンコ店で働きました」
だがパチンコ店の売上金を持って逃亡し、懲役10カ月の実刑判決。8カ月後に仮釈放されたが、今度はゴト行為に手を染め、懲役1年2カ月の判決で前橋刑務所へ。出所後はテキヤで生計を立てるも、
「長続きせずにまたゴト行為で逮捕されて、今度は北海道の月形刑務所です。この時は懲役1年6カ月で、結局、5年間で3回刑務所に入ることになった」
89年、月形刑務所を満期出所した竹澤氏は、今度こそ人生をやり直したい、との決意を胸に、実家のある神戸へ。大阪の人材派遣会社に登録し、栃木県小山市の大手建機メーカーで派遣社員として働くようになった。ここで竹澤氏は、会社の寮の正面にあったタイパブで知り合った20代後半の女性と結婚。女性の子供をタイから呼び寄せ、3人で暮らすことになる。
そのやさき、神戸を襲ったのが阪神・淡路大震災だった。
「幸い両親は無事でしたが、兄が震災からほどなくして末期ガンで死去。母は認知症で入院、父親も肝硬変で入退院を繰り返していて。そんな両親を放っておくわけにもいかず、家族を連れて小山から神戸へ引っ越すことになったんです」
だが、妻と子供にとって、神戸は慣れない土地柄。言葉は通じず、友達もいない。
「あっという間に妻がパチンコ依存症になり、ついには子供に暴力を振るうようになってね。で、もうこれ以上は限界だな、と」
妻と離婚。時を同じくして父親が死去。さらには母親がパーキンソン病を発症と、心労が重なる。その反動で、再び競馬場通いが始まった。