一口に昭和歌謡といっても、その定義は曖昧だ。先駆けは誰なのか。何がムーブメントの蠢動となったのか。そしていつからいつまでが「昭和歌謡」なのか。音楽評論家・富澤一誠氏に解説してもらった。
ビジュアル勝負のミニスカアイドルも誕生し…
「そもそも昭和歌謡という呼び方は後づけで、当時はそうは呼ばれていない。まぁ、当たり前ですが。それでもあえて時代を区切って言うなら、始まりは70年代、つまり昭和45年頃からと言えるでしょう」
昭和45年は、東京五輪が終わって6年目、まさに日本が上昇気流に乗っていく転換期とも重なる。同時代に歌謡界にも転換期が訪れたわけだが、その理由を富澤氏はこう考える。
「まずGS以降、レコード会社のシステムが変わってきたことが大きいと思う。具体的に言うと、作詞・作曲などの作家が専属契約制でなくなったこと。古賀政男さんや吉田正さんなどの大御所も皆、専属でした。このシステムだと、どうしても(当時、需要があった)演歌に重点が置かれてしまう。その呪縛から逃れたことで、若い作家たちの活躍する場が開けました。作詞家では故・阿久悠さん、なかにし礼さん、作曲家で言えば筒美京平さん、都倉俊一さんなどがその頃、若手ホープとして台頭してきました」
まさにキラ星のごとく、という形容がぴったりではないか。そして彼らには、大御所にはない一つの特徴があった。
「演歌メロディに重きを置いた大御所たちと違い、洋楽からの刺激が強かった。中でもいちばん影響を受けたのがビートルズです。世界を席巻した音楽にも負けない曲を自分たちも作りたい‥‥そういう熱い気持ちが数々の名曲の原動力になっていった。これが演歌中心から『ポップス』中心へとつながっていき、やがて昭和歌謡が生まれたのです」
そしてもう一つ。「昭和歌謡=ポップス」にはある「お約束」があった。「誰もが覚えやすい、さらに歌いやすいということ」
つまりは、幅広く人々に受け入れられる要素が増えたということでもある。
この作家たちの動きに、歌い手側(プロダクション)も敏感に反応する。ポップスに合った歌手の登場である。
「今話題の由紀さおりさんの『夜明けのスキャット』は69年の曲ですが、彼女の歌手としての容貌は今で言うところの『かわいい』に分類された。また反対にその前年、『天使の誘惑』が大ヒットした黛ジュンさんは、パンチの効いた歌唱力もさることながら、ミニスカートがファンに強烈な印象を与えた。ビジュアル勝負にも出たわけです。言ってみれば、アイドルの先駆けと言ってもいい」
こうして、ポップスの潮流に日本独自の文化とも言えるアイドルスパイスがかかっていく。黛の登場に刺激を受けたのか、72年にはある女性歌手が歌謡曲のイメージをガラリと変えてブレイクする。
「『どうにもとまらない』の山本リンダです。あの激しいアクションも当時としては実に斬新だった。これにGSから転身したジュリーこと沢田研二も加わり、昭和歌謡は全盛期を迎えていった」
ちなみに、「どうにもとまらない」の作詞は阿久悠、作曲は都倉俊一だ。その後、天地真理や小柳ルミ子、少し遅れて三人娘。男性では新御三家などが昭和歌謡をリードしていく。しかし、その昭和歌謡も80年代に入ると、ダンスミュージックやテクノポップなどの台頭で下火に‥‥。
「78年、79年ぐらいが、いわゆる昭和歌謡というブームにひと区切りつく時代となります」
その後の音楽事情はご存じのとおり、世はCDを経てネットで買う時代に。昭和歌謡世代にはちょっと寂しい気もするが、実は悪い話ばかりでもない。
「今、CDを購買する中心層は50~60代、つまり、かつての昭和歌謡ファンたちです。彼らを視野に、昭和歌謡のニューアレンジがブームになりつつある。ジャズなどのテイストをかけることがミソ。ただ懐かしいだけじゃ大人は反応しませんからね。僕はエイジフリーミュージックと呼んでいますが、今後有望な市場です」
昭和歌謡、いまだ終わらず、なのである。