“遅咲き”の名女優は、1920年(大正9年)に京都木屋町の料亭に生まれた。母は芸妓で、父が大学生という境遇だった。
高校1年生の時に肺結核で母を亡くし、その数カ月後に父も他界する。その後、芸能界入りを果たすが、戦火が激しくなり、慰問団として戦地を回った。それが、女優・森光子の“原点”となった。
「森さんは、慰問団として戦地に行く前は、軍歌ほど勇ましいものはないと思っていたそうです。ところが、実際に現地で若い兵隊さんたちが歌う軍歌を聴くと、これほどもの哀しいものはなかった、と。そして、『歌をありがとうございました』と涙を流してくれた多くの若い命が散っていった。そのことを絶対に忘れないと話されていました」(前出・米倉)
プライベートでは、結婚を2回経験。終戦直後の46年には、進駐軍として来日していた日系米国人と結婚したものの、新婚生活はわずか1週間で破綻。夫がハワイに帰還し、女優業をあきらめきれない森は渡米せず離婚となった。2度目は、59年に演出家の岡本愛彦氏と再婚したが、これも長続きしなかった。
そんな、森の女優としての才能が見いだされたのが、58年に上京してからのことだった。舞台のみならずテレビドラマの世界でも、その圧倒的な演技力と存在感で、お茶の間での人気を確固たるものとしたのである。
森と公私にわたる関係も深く、「天国の父ちゃんこんにちは」をはじめTBSで数々のドラマを手がけてきた演出家の鴨下信一氏が証言する。
「リコーのコピー機をもじって“リコピー”と呼ばれるほど、とにかくセリフの覚えが完璧でした。本読みの初日にして、全てセリフが入っている。共演者が皆アゼンとしていましたね。尺が余ってしまって、急造のセリフを口で伝えた時も『はい』と、その場で覚えてしまうんです」
さらに、マルチな才能を発揮した森は、ワイドショー「3時のあなた」(フジテレビ系)の司会に抜擢される。アナウンサーが司会を務めるのが常識という時代だったため、思わぬ逆風を受けたことがあった。
「当時、視聴者から『女優が何をしているんだ』という非難を浴び、『辞めたほうがいいのでは』と悩まれていた。他局の番組ですが、その時の私は、『森さんは、いろんな経験をしてさまざまな世界を見てきた。これからの女優は演技以外のこともするべき。絶対に続けたほうがいい』と説得。森さんもそれに応えてくれました」(前出・鴨下氏)
司会を務めた「3時のあなた」は、その後15年間も続く長寿番組となった。
森繁久彌との幻のドラマが…
女優として、実にストイックな一面を見せたが、プライベートでは、まさに天真爛漫を絵に描いたような女性だった。
ドラマ「時間ですよ」(TBS系)での初共演以来、交友のあった左とん平(75)が語る。
「銭湯の番台に登っている姿を眺めながら、本当にこんなお母さんがいたらいいなと思っていました。それ以来、私のことを『トントンちゃん』と呼んで、かわいがってくださいました。よく、(泉)ピン子と、由利(徹)さんとお母さん(森)と麻雀をしましたね。強くはなかったけど、皆でワイワイすることがお好きでした」
女優としては、09年に国民栄誉賞も受賞。その存在感たるや、「唯一無二の女優だった」と前出・鴨下氏も述懐する。
「森さんはアチャラカ(軽演劇)からシリアスまで何でもできた。『私はえり好みするような役者人生は送ってきてませんから』と言ってました。名役者は、役柄によって芸を変えることで、『引き出しが多い』なんて表現される。ところが、森さんはその上を行き、一つの演じ方でいろんな役を演じられる。あとにも先にもそんな役者はいません」
そんな鴨下氏には、森を起用する“幻のドラマ作品”の構想があったという。
「実は数年前、森さんと森繁(久彌)さんで、ドラマを作ろうとしたことがありました。しかし、実行に移さないうちに、(演出家の)久世(光彦)が死に、森繁さんが亡くなってしまった。森さんも『何で早く作ってくれなかったんですか』と言っていた。そのことだけは心残りですね」
今頃、天国では、かつての役者仲間やスタッフたちと顔合わせをしている頃だろうか。合掌。