結婚といえば、こんなエピソードを思い出す。
岡田とは、まだ小百合が19歳の頃に知り合った。岡田は当時、小百合が出演した「若いヨーロッパ」というドキュメンタリー番組(ヨーロッパの若者にマイクを向けて生態を聞いたり、風物をレポートしたり)で、「お目付け役」のスタッフとして同行。実はその時、周囲の女性関係者は、小百合にこんなことを言ったという。
「あなたが仕事を続けていくのなら、ああいう人(岡田)と結婚したらいいんじゃないの」
小百合はそのことを覚えていて結婚に至ったのかどうか、それはわからないけど‥‥。
「自分を救うために結婚します」
これが公の場で語った、小百合のコメントだ。小百合は私の自宅に遊びに来た時、あるいはインタビュー取材で会った時、私にもこう言った。
「とにかく苗字を変えたかった」
両親と絶縁覚悟の駆け落ちみたいなものだった。親の縛りから逃れたかったのだ。そんなところに年上の男が登場し、親身になって慰めてくれた。だからこれはいわば、「慰められ婚」。
一方で小百合は、近著「私が愛した映画たち」(集英社新書)で、最初は恋愛でもいいんじゃないかと思ったこと、でもどうしても結婚したくなったことを綴りながら、
〈親からは結婚を反対されました。(中略)押しかけ女房なんです〉
と回想している。渡の時に続いて、やはり大反対した両親は、体調を理由に、結婚式には出席していない。
そういえば、私の家に来た小百合は、私が、
「あるマスコミ人が『吉永小百合も岡田太郎にダマされちゃって』と言っていた」
と言うと表情が突然、キッとなって、
「私がダマしたんです! 私の方がまみさんよりしたたかですから」
なんて反発。後日、「あんな言い方は小百合ちゃんに似合いませんよ」と忠告のファックスを送ったものだった。
だけど、全てはタイミングだったのだろう。
「もし(声が出ない)病気をしなければ、結婚しなかったかもしれない」
そうも打ち明けてくれたのだから。
結婚後、小百合は1年以上、仕事をせずに、家庭に引っ込んだ。彼女にとっては、夫のために料理を作ったり、買い物に行ったり、洋裁を習ったりという主婦生活を送ることが嬉しくてしょうがなかったのだ。
夫婦で食事に出かければ、歓待も受けた。赤坂の「天一」という天麩羅屋では、サユリストだった板前がサービスして、グリーンアスパラを小百合にだけ余計に揚げてやった、とか。
そんな生活の影響か、出なかった声の病気も徐々に回復していく。
結婚後も、小百合と私の交流は続いた。彼女の一戸建ての自宅にプレゼントを贈ったこともあった。
中平まみ(作家)