1999年の第71回春の選抜は高校野球史に残る記念碑的な大会となった。春夏通じて沖縄県のチームが初優勝を成し遂げたからだ。
この歴史的快挙を達成したのは沖縄尚学。1958年第40回夏の選手権に首里が沖縄代表として甲子園初出場を果たしてから実に41年の月日が流れていた。
初戦の相手はこの大会注目の好投手・村西哲幸(元・横浜)擁する比叡山(滋賀)。プロ注目のエース相手に沖縄尚学のエース・比嘉公也(愛知学院大)は五分に渡り合った。沖縄尚学打線は村西に3安打10奪三振と抑えられたが、0‐0で迎えた7回裏にスクイズで1点を先取。比嘉がその1点を死守したのである。
2回戦の浜田(島根)との試合でも比嘉は粘投した。毎回走者を背負いながら耐えて完投。スコアは5‐3だった。続く準々決勝。監督の金城孝夫は先発オーダー変更の手に打って出た。4番打者で主将の比嘉寿光(元・広島東洋)を1番に起用。先発に2番手投手の照屋正悟を抜擢したのである。この采配がズバリと的中し、しぶとい野球が身上の市川(山梨)を4‐2で振り切り、ベスト4進出を決めた。
迎えた準決勝の相手はこの大会、優勝候補筆頭のPL学園(大阪)。この難敵相手に沖縄尚学は高校野球史に残る熱戦を展開する。5‐2とリードした7回裏。2死無走者からショートの比嘉寿光のエラーをきっかけに四球と長短打を浴びて一気に追いつかれてしまった。この大会を通して接戦を勝ち抜いてきた沖縄尚学は常に先手先手を取って、相手に1度もリードを許したことがなかった。同点で突入した延長戦でも11回表に勝ち越すもすぐに追いつかれたが、続くピンチを切り抜けている。そして6‐6で迎えた12回表。2死二塁から比嘉公也自らが勝ち越しタイムリーを放ってこの死闘にケリをつけたのであった。8‐6。212球の熱投だった。
こうして沖縄尚学は、沖縄県勢としては春夏通じて史上3度目となる甲子園の決勝戦進出を果たしたのである。過去2回、1990年と翌91年の夏の選手権では沖縄水産が2年連続準優勝に終わっていただけに、その無念を是が非でも晴らしたいところではあった。
だが、その翌日の決勝戦の対水戸商(茨城)戦。沖縄尚学のマウンドに比嘉公也の姿はなかった。実は2回戦の途中で右足首をねん挫していたのだ。前日のPL戦は白いテーピングで右足をぐるぐる巻きにしての投球。満身創痍のエースはもうすでに限界を越えていたのだ。その比嘉の思いを託された2番手投手の照屋が好投を見せる。2回表に2点を取られたものの、水戸商打線を被安打7の2失点のみに抑えた。味方打線は10安打を放ち、7得点。閉会式ではこの大会の開会式の行進曲でもあったKiroro(奇しくも同じ沖縄県出身である)の『長い間』のメロディに乗って誇らしげに球場内を一周する沖縄尚学ナインの姿があった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=