甲子園の地元である兵庫県の高校は今回の春の選抜には出場していないが、同県の名門・報徳学園は過去に2度、春の選抜を制している。最初は1974年第46回大会。この年は今や高校野球では定番の金属バットが正式に導入される前の“木製バットオンリー”だった最後の大会であった。
この時の報徳はエースに住谷正治、リリーフに東芳久という二枚看板をそろえ、現在は主流となっている投手分業制を取り入れた先駆け的チームだった。
1回戦の鹿児島商戦は4‐3という接戦での勝利となった。住谷の暴投を見た走者が本塁突入を試みたものの、その投球がバックネットでうまく跳ね、本塁直前で刺すという幸運もあっての辛勝だった。2回戦と準々決勝は、工藤一彦(元・阪神)と土屋正勝(元・中日など)という、ともにこの大会注目の右腕と対決。前者の土浦日大、後者の銚子商(千葉)をともに2‐1の僅差で降し、ベスト4へ。準決勝では平安(現・竜谷大平安=京都)を投打で圧倒。5‐1で勝ち決勝戦へと駒を進めたのである。
決勝戦はこの大会、部員わずか11人で旋風を巻き起こしてきた“さわやかイレブン”の池田(徳島)との一戦。地元の高校でありながら甲子園特有の“判官びいき”の声援に苦しめられたが、6回裏にタイムリーが飛び出し1点を先制。その直後に無死一塁の場面で先発の住谷から東へと継投してこの回は抑えたものの、8回表に同点とされてしまった。しかし、その裏にすかさず無死一、三塁からタイムリーなどで2点を勝ち越し、3‐1で勝利。木製バット時代の最後の大会の王者に輝いたのである。
2度目の優勝は21世紀に入ってから。2002年の第74回大会だ。大谷智久(千葉ロッテ)と尾崎匡哉(元・北海道日本ハム)が投打の中心を担う大型チームで、もちろん堂々の優勝候補だった。
その“西の横綱”が初戦でぶつかったのが、前年夏の優勝校でこの大会“東の横綱”と目されていた日大三(東京)だった。試合は予想通り接戦となり、2‐2の同点で迎えた7回裏に大谷の女房役・荒畑圭が左翼スタンドへ勝ち越しの一発。これが決勝点となって3‐2で勝利したのである。
この大一番を制した報徳は波に乗った。2回戦では西村健太朗(読売)‐白濱裕太(広島)のバッテリーを擁する広陵(広島)を5‐3、準々決勝では須永英輝(元・北海道日本ハムなど)の浦和学院(埼玉)を7‐5、準決勝では福井商を7‐1で一蹴して決勝戦の舞台へと進出したのである。
決勝戦の相手は鳴門工(現・鳴門渦潮=徳島)。試合は序盤で決まった。2‐0とリードして迎えた3回裏に1死後から5本の長短打に四球を絡ませて一挙5得点を挙げたのだ。最終的には15安打で8得点。一方で大谷は9安打を浴びながらも丁寧に打たせて取る投球で2失点に抑えた。8‐2の快勝で28年ぶり2度目の頂点に輝いたのである。
この大会、報徳は初戦から決勝戦までのわずか6日間ですべて強敵ばかりとの5試合をこなし、大谷自身もすべて完投。まさに完全勝利での栄冠であった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=