戦前に開催された夏の選手権で生まれた最後のヒーローは、今や甲子園史上の伝説となっている大投手でもある。
1939年第25回大会。優勝校となったのがその伝説の大投手・嶋清一を擁する海草中(現・向陽=和歌山)であった。旧制中学1年だった35年の夏に一塁手として甲子園の土を踏み、翌年から投手に転向した嶋だったが、その間に何度も甲子園で無念の涙を流していた。特に最上級生である旧制5年生となり、主将にも選ばれて挑んだ39年春の選抜は開幕戦に登場。中京商(現・中京大中京=愛知)との一戦となったが、試合中に指先のマメがつぶれ、血染めのボールを投げながらも2‐7の完敗を喫した。
そして、そこから嶋の伝説が始まる。猛練習をこなし、雪辱を期して挑んだ夏の選手権の舞台がやってきた。もちろん嶋にとっては最後の夏の甲子園である。学生野球の父と言われた飛田穂洲氏はこの大会での嶋のピッチングを“天魔鬼神に等しい快投”と評しているが、その足を高く上げ、流れるようなフォームで左腕から投じられる剛速球と垂直に鋭く落ちるカーブは、当時の中等学校野球のレベルをはるかに超えるものだったと言われているのだ。
初戦から嶋のその左腕はうなりをあげた。まず嘉義中(台湾)を5‐0(15奪三振・被安打3)、続く2回戦は京都商(現・京都学園)を5‐0(7奪三振・被安打2)、準々決勝では土井垣武(元・阪神など)や長谷川善三(元・南海など)らの強打者をそろえた米子中(現・米子東=鳥取)を3‐0(9奪三振・被安打3)、そして準決勝の島田商(静岡)戦は何と4四球を与えたのみの17奪三振でノーヒットノーランの快投。8‐0と大勝して一気に決勝戦進出を決めたのである。
迎えた決勝戦の相手は下関商(山口)。この試合も嶋は2四球しか与えなかった。8奪三振の5‐0。なんと2試合連続のノーヒットノーランを達成し、海草中の春夏を通じて初の甲子園優勝に華を添えたのである。ちなみにこの試合で許した2四球の走者も、1人は二盗死、もう1人は一、二塁間の挟殺に仕留めており、二塁を踏ませることなく残塁0。まさに27人斬りの完璧な投球内容だった。
この大会での嶋は45回を投げて154人の打者と対戦して被安打8、奪三振57。先頭打者の出塁を許したのはわずか3人。さらに5試合でヒット以外に外野に飛んだ打球は12本のみ。まさに“天魔鬼神に等しい快投”であった。のちに“5試合連続完封”と“45回連続無失点”は48年第30回大会で小倉(福岡)の福島一雄が達成しているが、決勝戦でのノーヒットノーランに至っては59年後の98年第80回大会で横浜(神奈川)の松坂大輔(中日)が達成するまで、史上唯一の大記録となっていた。だが、甲子園の歴史上、2試合連続ノーヒッターに輝いたのは、今でもこの嶋以外にない。伝説の大投手はこの後、明治大学に進んだが、戦火に巻き込まれ、学徒出陣して戦死。まだ24歳の若さであった。
この時の嶋の快刀乱麻のピッチングを当時、三塁手として見ていたのが、翌年に優勝投手となる真田重蔵(元・松竹など)。真田も、のちにプロで一時代を築くほどの剛速球の持ち主で、40年の第26回大会では平壌一中(朝鮮)を12‐1、準々決勝では京都商を延長12回、4‐3の熱戦を制すと準決勝の松本商(現・松商学園=長野)を3‐1。そして決勝の島田商戦を2‐1の接戦でものにして夏の大会史上4校目の連覇を成し遂げたのである。
翌41年は折からの戦争の情勢悪化のため大会は中止。海草中は戦前最後の夏の甲子園優勝校としてその名を歴史に刻んだのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=