第100回を迎えた今年の夏の選手権。開会式には皇太子さまもご出席され、お言葉を述べられた。その中で皇太子さまが“ご自身の最初の高校野球の記憶”として触れられていたのが、ちょうど今から50年前。1968年第50回の夏の選手権の記念大会決勝戦。興國(大阪)対静岡商の一戦である。1‐0という緊迫した投手戦だった。これを制した興國が初出場初優勝、大阪府勢としては4度目の夏の全国制覇を成し遂げている。
この時の優勝投手・興國のエース丸山朗(早大ー大昭和製紙)は身長173センチで体重65キロ。数字以上に細めに見えた体格だった。その身体でアンダースローから頭脳的なピッチングを展開。初戦の金沢桜丘(石川)戦は5‐0の2安打完封。2回戦の飯塚商(福岡。現在は廃校)戦も1‐0の1安打完封。3回戦の星林(和歌山)戦も6回まで両軍0行進の投手戦が続いていたが、益川満育(元・ヤクルトなど)らの好打で、終盤に2点を奪い、これを丸山が変化球を駆使した投球で星林打線を散発4安打に抑えた。何と3試合連続完封でベスト8進出を果たしたのである。
迎えた準々決勝、三重戦の3回表に丸山はついに1点を奪われてしまう。しかし、三重に打たれた安打はわずか5本。8三振を奪って5‐1の完投勝利を挙げた。準決勝の興南(沖縄)戦は序盤から打線が爆発。14‐0の大勝でついに決勝戦進出を決める。先発した丸山は6回まで相手を無得点に抑えて降板。控え投手だった益川にマウンドを譲っている。
最後の大一番の相手は静岡商。投の中心は、のちに読売ジャイアンツの第一次長嶋茂雄政権を支える左腕として活躍した新浦壽夫、打の中心が、のちに中日ドラゴンズで2度のリーグ優勝に貢献する藤波行雄である。この大型チーム相手に丸山は一歩も引かず、下手から浮き上がるような速球とカーブ、シュートを織り交ぜて、得点を許さなかった。丸山と新浦の息詰まる投手戦が続く中、5回裏に試合が動いた。熱田実雄の左中間を割るタイムリーで興國が1点を先取したのだ。丸山にはこの1点で十分だった。結局、静岡商を3安打に抑え7奪三振の完封劇。1‐0という最もしびれる投手戦を制したのは、“力でねじ伏せるばかりが甲子園の優勝投手ではない”ということを証明する“技の巧み”のようなピッチングだったのである。
大阪府勢はこれまで夏の甲子園最多の12回の優勝を果たしているが、そのうちの5度が記念大会だった。45回、50回、60回、65回、そして90回大会だ。記念大会に強い大阪府勢だけに、この第100回大会でも優勝なるか。おおいに注目したい。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=