第100回を迎える長い夏の選手権の歴史の中で史上唯一、サヨナラ本塁打で優勝を決めたチームがある。1977年の第59回大会のことだ。
この大会では彗星のごとく現れた東邦(愛知)の1年生投手・坂本佳一(法大-日本鋼管)がその実力とアイドル顔負けのルックスで一躍、ヒーローとなっていった。そのあどけない可愛さの残る美少年ぶりから“バンビ”という愛称がつけられたほどだ。勝ち上がるたびに人気を集めていった“バンビ坂本”を中心とした東邦はついに決勝戦へと進出する。その東邦を迎え撃ったのが大会屈指の本格派左腕と評された剛腕・松本正志(元・阪急)擁する東洋大姫路(兵庫)である。
東洋大姫路は松本だけでなく機動力を備えた打線も超高校級であった。前年秋から84戦して81勝と抜群の強さを誇っていたこともあり、当然のように優勝候補の一角に名を連ねることとなった。そしてその実力が初戦から全開となる。千葉商を4‐0、浜田(島根)を5‐0と下してベスト8へと進出。準決勝では2年生ながら4番で打線を引っ張る石嶺和彦(元・オリックスなど)の豊見城(沖縄)を8‐3と圧倒してベスト4へ。だが、準決勝の今治西(愛媛)との一戦は相手エース・三谷志郎(早大-プリンスホテル)が大会屈指の右腕ということもあり、この大会、初めて東洋大姫路が苦戦する試合となった。
試合は両軍譲らず0‐0のまま延長戦に突入。結局、10回表にスクイズで決勝の1点を挙げた東洋大姫路に凱歌が上がったが、勝利のポイントは東洋大姫路の堅守であった。8回裏2死一塁から三谷が左中間を真っ二つに割る長打を放ったが、レフトの平石武則が素手でクッションボールを処理し、矢のような中継プレーでランナーを間一髪本塁アウトにしたのだ。こうして苦戦の末、決勝戦進出を決めた東洋大姫路であったが、その相手がアイドル並みの人気を誇る坂本擁する東邦である。甲子園球場は“判官贔屓”の声援であふれ返ることは確実だった。
東洋大姫路は初回にいきなり無死満塁のチャンスをつかむが、ここで坂本にかわされ無得点に終わると流れは東邦へ。直後の2回表に1点を先取されてしまった。地元のチームなのにほとんどが東邦・坂本への声援に包まれていて、マウンド上の松本は明らかに投げづらそうだった。だが、東洋大姫路も4回裏にランナーを3塁において東邦の捕手・大矢正成の送球ミスで同点に追いつくと、試合はそのまま両投手の投げ合いとなった。松本は6回裏に無死満塁のピンチを迎えたが、逆に開き直ったのか、持ち前の剛球で相手打者をねじ伏せてピンチを脱していた。
膠着状態に陥った試合は延長10回裏に決着する。2死ながら一、二塁のチャンスを作った東洋大姫路は4番の安井浩二が打席へと向かう。坂本は疲れからか、7回ごろから球が高めに浮き始めていた。安井はその外角高めの速球をうまく流し打ち、打球をライトラッキーゾーンへと運んだのだ。1回裏、3回裏と好機に凡退していた4番の意地だった。夏の大会史上初となる決勝戦サヨナラ本塁打で初優勝。狂喜乱舞の東洋大姫路ナインを横目に淡々とマウンドを降りる坂本。その構図はみごとなまでのコントラストを描いていた。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=