甲子園球場には名物のアルプススタンドとは別に“ヒマラヤスタンド”がある。1936年に球場の大改修が行われ、木造でわずか20段と低かった外野の東西スタンドをアルプススタンド同様に鉄筋コンクリート50段へと改築した。これが“ヒマラヤスタンド”と呼ばれるようになったのである。これによって外野席だけで3万人が収容可能な大球場へと生まれ変わったのだが、さらにフェアグラウンドもほぼ現在の形となり、バックスクリーンも設けられた。
そんなある意味、記念すべき年の第22回夏の選手権で優勝を果たしたのが東海の名門・岐阜商(現・県岐阜商)である。同年春の選抜にも出場していたが、2回戦で松山商(愛媛)に0‐2で敗退。それでも左腕のエース・松井栄造(早大)はそれまでに2度の春選抜で優勝投手となっていただけに、チーム力には定評があった。
岐阜商は初戦で沢藤光郎(元・近鉄)=同球団最初の勝利投手=擁する盛岡商(岩手)と対戦するが、岐阜商打線が好調で18長短打と大爆発。18‐0で圧勝する。この試合、松井は登板しなかったが、本塁打を放つなど打で活躍。投げては下級生で投手兼中堅手の野村清(元・毎日など)が、わずか3安打で完封するなど好発進を見せたのだった。続く2回戦の鳥取一中(現・鳥取西)との試合でも野村が先発。途中から松井に継投し、4‐1で勝利すると準々決勝でも和歌山商に9‐1で完勝。この試合も野村が先発し、完投勝利を収めた。
準決勝はいよいよこの大会初の松井の先発である。育英商(現・育英)相手に松井の左腕は冴え、得意球の大きな縦のカーブを駆使し、7奪三振の被安打わずか3。1失点完投で7‐1での快勝を収め、ついに決勝戦へと進出した。
相手は北川英三-辻井弘(元・広島など)の強力バッテリーを擁し、ここまでの3試合で33得点を挙げた打線も破壊力を秘めている平安中(現・龍谷大平安=京都)となった。試合は好勝負が予想されたが、北川が不調だった。この北川に襲いかかった岐阜商打線が猛打で9点を奪い、投げては先発した松井が8本のヒットを浴びながらも決定打を許さずに5奪三振の1失点完投勝利。9‐1の完勝で夏の甲子園初優勝を遂げたのである。
ちなみにこの時の岐阜商は夏の選手権初出場だった。そしてこれ以降、岐阜県勢は夏の甲子園で4度の準優勝はあるが、優勝はない。この時の岐阜商の初出場初優勝が、県勢にとって今のところ最初で最後の夏の全国制覇となっているのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=