ショーケン‥‥その呼び名は昭和の同時代を生きた男たちにとって格別の響きがあった。不良性感度に満ちた奔放な私生活が目立つが、なにより演技も歌声も余人をもって代えがたい輝きがあった。平成の終わりに68年の生涯を閉じたショーケンが、アサ芸だけに明かしてくれた貴重な秘話の数々を振り返る。
ショーケンこと萩原健一の出世作である「太陽にほえろ!」(日本テレビ系)の、あまりにも有名な殉職の回のタイトルは「13日金曜日マカロニ死す」であった。73年7月13日のことである。当時、一般的になじみのなかった「殉職」や「13日の金曜日」を一気に広めたのは、ショーケンの影響力があればこそである。
そしてショーケンは平成も終わろうとする直前の19年3月26日、忽然と世を去った。GIST(消化管間質腫瘍)という「約10万人に1人の珍しい病気」により、68歳の若さで旅立ったのだ。病気自体は11年に発症しているが、死の2日前にはジムで汗を流すほど元気だっただけに、その生涯と同じく“激変”であった。
ショーケンの出発点は、GSブームの頂点をザ・タイガースと争ったザ・テンプターズにある。67年10月、デビュー曲の「忘れ得ぬ君」が発売されるが、リードボーカルであるはずの萩原が参加していない。
その理由をこう明かした。
「どうしても歌いたくなかったから。あの曲に関しては僕じゃなく、リーダーだった松崎由治のボーカル。僕が歌ったヤツでは『おかあさん』とかイヤだったなあ。だって『オー、ママママ♪』ってフレーズだぜ」
17歳にして反骨精神の塊であった。さらに、テンプターズに対しても、白タイツの衣装などに違和感を覚え、3年ほどで“強制解散”の道を選んでいる。
解散後にショーケンが選択したのは、ライバルだったタイガースの沢田研二(70)や岸部修三(72)=現・一徳=、兄貴分だったザ・スパイダースの大野克夫(79)や井上堯之(18年没)と組んだ「PYG」というスーパーグループ。だが、目論見どおりではなかったとこう述懐した。
「沢田の客が1万人、萩原の客が1万人、それを合わせたら2万人だっていうんだ。そんなの、とんでもないよ。僕のファンは男が多くて沢田のことは嫌い。沢田の客は女の子ばっかりでショーケンは嫌い。結局、1+1は2にならずにゼロになっちゃったね」
内部分裂も熾烈で、沢田とのツインボーカルだったが、次第に歌うパートが削られてゆく。
「俺はリードタンバリンじゃねえ!」
ショーケン流の表現でタンカを切るや、わずか1年で袂を分かっている。やがて俳優として時代の寵児になってゆくが、それを決定づけたのが「太陽にほえろ!」の新人刑事・マカロニ役。石原裕次郎扮するボスに対し、新人のマカロニがぶつかって成長してゆく姿は、これまでの刑事ドラマと一線を画した。ただし──、
「主題歌をどうするのって聞いたら、石原プロの小林正彦専務が『裕次郎さんでいきたい』って言うわけ。いやあ、そのイメージは僕にはない。8ビートのロックでしょって言って、それで井上堯之バンドを推薦したんです」
あの裕次郎がドラマ初出演という話題性はあったが、それでも反旗を翻したのだ。さらに、20話でメインゲストに沢田研二を招いた時にも異を唱えている。
「何かあると『いや、普通はね』って反論されてたよ。じゃあ、その『普通』って何だよって。実は20話に、犯人役の沢田研二を射殺してしまうシーンがある。この時も『普通は主役の刑事が射殺する場面はない』って否定されたしね」
私生活では「クスリとアルコール」にまみれた日々を送っていた。そしてショーケンを語るうえで欠かせないのが、取り巻いたオンナたちである‥‥。
〈童貞を失ったのは、十四歳のとき。相手は十五歳のミドリという女の子で、私立M学園の生徒会長だ。原宿の原っぱで、アオカンだった〉
08年刊行の自叙伝「ショーケン」(講談社)でこう初体験をつづった。華麗なる女性遍歴は、昭和・平成の芸能史を映す鏡でもある。