もう1つの分岐点は俳優・高倉健との仕事だった。東映時代の「網走番外地 北海篇」(65年)から共演は数多く、特に元恋人で死にゆくヒロインを演じた「居酒屋兆治」(83年、東宝)は名作の誉れ高い。
それでも、麗子が「生涯の代表作」と自負したのは、NHKのドラマ「チロルの挽歌」(92年)だった。高倉にとって初めてのNHKドラマで、脚本は麗子が尊敬してやまない山田太一。ここで麗子は高倉の妻の役を演じた。無口で無愛想な夫から逃げ、別の男と駆け落ちをする。その人間模様は「ギャラクシー賞」を受賞する高い評価となった。
「姉の遺品を整理していたら、DVDプレイヤーに『チロルの挽歌』が入ったままでした。ほかの出演作では封を切っていないものもあったけど、この作品は何度も繰り返して見ていたんでしょうね」
弟の政光は、その前のめりな性格ゆえに起きた一件を明かす。森と再婚した翌81年、実に10本ものドラマをこなした多忙の渦中であった。
「森さんとの子をお腹に宿したけど、ドラマを降りるわけにはいかない。あの人にバレないように堕ろしたいから、どこか病院を探して」
早く女優を辞めて子供を産んでほしいと願う森の気持ちを知る政光は申し出に反対したが、麗子の考えは変わらなかった。結局、麗子は生涯で唯一の、母親となる機会をみずから放棄してしまったのである。
このことを森が知ったのは、離婚してしばらく経ってからのこと。すでに森昌子との新しい家庭を持っていた森だが、その胸中は穏やかではなかったようだ。
さて、TBSの演出家として多くの仕事をともにした鴨下信一は、麗子を指してこう言う。
「結婚している時も離婚した時も、芝居にまったく影響しないタイプ。感情的な芝居もうまいけど、僕には冷静な芝居をする“演技の技術者”に見えた」
鴨下が演出した麗子作品は、42.6%もの視聴率を獲得した「女たちの忠臣蔵」(79年)や、ビートたけしとの夫婦役となった「浮浪雲」(90年)などがある。市川崑から引き継いで「サントリーレッド」のCMも何本か演出した。
「いろいろ印象深い作品はあるけど、圧倒的にきれいだなと思ったのは『源氏物語』(91年)だったね。事実上の主役である『藤壺女御』と『紫の上』の二役を演じてもらった。彼女は45歳だったけど、そこで美しさがピークを迎えた“遅咲きの女優”だったかもしれない」
美しさと演技力と視聴率の3つを高いアベレージで兼ね備えている女優は数えるほどしかいないと鴨下は言う。それが麗子だったのだが、晩年は表舞台から姿を消し、そしてひっそりと世を去った。
「彼女がいなくなってドラマの一時代が終わったように思うね。特に『美人女優』というもののあり方は、大きく変わったかな」
大原麗子がテレビに棲めなくなった理由は何だったのだろうか──。