65年に東映の専属となった麗子は、端役ながら多くの撮影をこなした。高倉健の「網走番外地」シリーズや、梅宮辰夫の「不良番長」シリーズにも何度か顔を出している。
映画監督の内藤誠は「網走」ではチーフ助監督として、「番長」では監督として若き日の麗子と向き合っている。特に「網走」は長期の北海道ロケとなるため、会話する機会も多かった。
「麗子から『野獣会』の話を聞いて、いかにも六本木で遊んできた都会的なカッコよさと、撮影所の皆が口をそろえる元気のよさが魅力だったよね」
麗子から5年遅れて東映に入社した渡瀬恒彦は、内藤の映画にも何度となく出演している。麗子が出演した「不良番長 手八丁口八丁」(71年)の撮影時は、すでに2人は「結婚前提」の仲になっていた。
後年、内藤は梅宮から渡瀬の武勇伝を聞く。
「六本木で梅宮や渡瀬、麗子や安岡力也が連れ立って飲んでいたんですよ。すると麗子にちょっかいを出そうとしたサラリーマンがいて、すぐに渡瀬が“助け”を出したと」
また麗子も「野獣会」の出身らしく、ケンカの場面になると気勢が上がったと梅宮が語っている。
「ほら、力也、後ろから蹴っちゃいな!」
やがて麗子はドラマに比重を移し、こうした無頼な日々とは一変した役柄が増えてゆく。内藤もテレビ局ですれ違うことはあったが、お互いの方向性が違うため「元気?」の一言くらいしか会話がない。
「カツラをつけて大河の主役をやるようになったけど、僕の中では『不良番長』でワイワイとやっていた麗子が、一番いい時期だったと胸を張って言えるよ」
73年に渡瀬と結婚した麗子は、75年に「10万人に1人」と言われるギラン・バレー症候群を発症する。重度の神経疾患であり、体のバランスを崩して転倒したり、骨折してしまうことも多かった。
TBSの演出家として麗子の代表作をいくつも手掛けた鴨下信一は、思いがけない形で麗子と「接点」を持つ。
「僕も偶然だけど99年にギラン・バレーにかかっちゃった。かなり症状が重くて、呼吸器の切開までやったほど。その入院先に麗子ちゃんが見舞いに来てくれたんだよね」
同じ病気の“先輩”として、麗子は気にかけてくれたのだろう。やがて鴨下は無事に一線に復帰するが、それと前後して麗子が「ギラン・バレーの再発」を理由に、女優の活動を休止している。
ただし、これに鴨下は異を唱えた。
「この病気に再発ということはない。もちろん、後遺症が残ることはあるが、病気そのものがぶり返すということはないんです」
どこか“暗示”のような形で、麗子はみずから逃げ場をふさいでしまったのかもしれない。