高校野球界で“逆転の”という言葉で形容されるチームがある。関西の強豪・報徳学園(兵庫)だ。これは同校が春夏通じて甲子園初出場を果たした1961年夏の選手権第43回大会で見せた逆転劇が由来となっている。
初戦の倉敷工(岡山)戦の延長11回表に6点取られた報徳がその裏に6点取り返し、続く12回裏にサヨナラ勝ちした試合がそれだ。そしてその“逆転の報徳”がふたたび甲子園を沸かせる瞬間が訪れる。81年第63回夏の選手権の3回戦だ。
前年、甲子園に1人のアイドル球児がさっそうと現れた。東の名門・早稲田実(当時は東東京。現在は西東京)の1年生エース・荒木大輔(元・ヤクルトなど)である。この時、準優勝投手となった荒木は日本中に一大フィーバーを巻き起こした。その荒木が2年生になって甲子園に戻ってきたのである。もちろんこの年の大会の最大の目玉である。
そんな荒木に対して並々ならぬ闘志を燃やしていたのが報徳のエース兼4番の金村義明(元・中日など)だった。荒木を擁する早実は高知を4‐0、鳥取西を5‐0と連続完封で勝ち上がり、対する金村の報徳も盛岡工(岩手)に9‐0、横浜(神奈川)に4‐1と快勝。しかも金村は横浜戦で史上3人目となる2打席連続アーチをやってのけていた。そして、この両者が3回戦で激突することとなった。
最初にチャンスをつかんだのは早実だった。2回表に四球と三遊間安打で1死二、三塁と絶好の先制機が訪れる。だが、続く7番・黒柳知至の打席で報徳の金村は冷静だった。相手のスクイズを読み、先制点を阻止。そしてそれ以降、6回まで早実打線に1本のヒットも許さなかった。
一方の早実・荒木も快調で、6回を終わって打たれたヒットはわずか2本。崩れる気配がまるでない。こうなると先取点を取ったほうが断然有利となる展開である。
その先取点が早実に入った。7回表、早実は1死から金村を攻めて5番・池田秀喜がこの日チーム2本目となる左前打で出塁。続く住吉秀実が金村の速球を右中間最深部まで持っていく適時三塁打を放ち、ついに均衡が破れる。なおも1死三塁から黒柳が中前適時打し、もう1点追加。このあと荒木が送った2死二塁から9番・松本達夫が二塁強襲安打。この回3点目とし、さらに突き放したのであった。
早実は続く8回表にも先頭の2番・高橋公一の四球をきっかけに1死三塁とし、4番・小山寛陽がスクイズ。ダメ押しとも思える4点目をもぎ取った。荒木の調子から判断して、これで“勝負あり”。事実、金村をはじめとする報徳ナインもこれで「負けた」と観念したという。
それでもその裏、報徳は疲れの見え始めた荒木から9番・東郷洋志と1番・高原広秀が連打し、1死一、二塁のチャンスを作る。続く2番・大谷晴重の当たりは二塁正面のゴロとなったが、併殺崩れの間に二塁ランナーの東郷が好走塁を見せ、本塁を陥れることに成功。ようやく1点を返したのだった。金村は9回の早実の攻撃を3者凡退に打ち取り、いよいよ最後の攻撃に望みを託すこととなったのである。
9回裏、報徳の先頭打者は金村だった。そのバットから放たれた打球は二遊間で高く弾み、執念の内野安打となる。続く5番・西原清昭が死球でつなぐと場内の雰囲気が少しずつ変わり始めた。地元・報徳への声援が増していったのだ。ここで岡部道明が三塁線突破の適時二塁打を放ち、2‐4と詰め寄る。そして1死後、打席には途中から守備要員で入っていた小柄な左打者の浜中祥道。初球、甘く入った直球をキレイに流し打ち。打球は同点適時二塁打となって三塁線を抜けていく。土壇場での同点劇。まさに“奇跡の報徳”が再現されたのである。
試合は延長戦に突入したが、こうなると流れは報徳にあった。10回裏、2死から金村が左翼線へ二塁打を放つと、続く5番・西原が荒木の投じた2球目の甘いスローカーブをレフトオーバーに打ち返し、ついに決着。5‐4の劇的サヨナラ勝ちであった。
激闘を制した報徳はこのあと名古屋電気(現・愛工大名電=愛知)の工藤公康(元・西武など)ら、のちにプロ入りする人気実力派の投手たちを次々に攻略。金村は“悪役ヒーロー”になった感もあったが、地元・兵庫にみごとに深紅の大優勝旗を持ち帰ったのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=