梅宮最長の主演シリーズであるコメディアクション「不良番長」シリーズ(68~72年、東映)出演時には、同作で共演した山城新伍との珍エピソードを残している。
出演した新人女優の名付け親となった梅宮は、そのお礼として彼女と一夜を共にした。ところが、それから下半身に異変が。医者に行くと淋病と診断される。
そこに山城がやって来て「ここの具合、おかしくない?」と尋ねてきたから、梅宮は驚いてしまう。話を聞くと「俺もあの娘とヤッたんだ」という、まさかの返答だった。梅宮が名付け親になったことで女優を抱いたと知った山城は、すかさず彼女のもとへ行き、「辰ちゃんと俺、その名前を一緒に考えたんだ」と言って、便乗エッチにあずかったというのだ。2人そろって病気をもらうという、本編顔負けのオチもさすがである。
そんな生活が一変したのは、72年のこと。当時の梅宮は、山城や安岡力也、池玲子や杉本美樹が所属する「梅宮企画」を経営していた。ところが、マネージャーの横領によって倒産。失意のどん底でクラウディア夫人に出会ったと、梅宮は語っている。
「俺と菅原文太さんで銀座に飲みに行って、他のホステスはキャーキャー言っているけど、うちの女房は知らん顔。俺と文太さんが役者であることさえ知らなかったんだ」
再婚、そして「仁義なき戦い」(73年、東映)の出演をきっかけとした東映実録やくざ映画への出演が苦境を脱するきっかけとなった。さらに、75年には「前略おふくろ様」(日本テレビ系)に出演。今年3月に亡くなった萩原健一の師匠的な役を演じたことで、テレビに新たな活路を見いだす。
以後も映画、ドラマ、バラエティー番組などで多彩な活躍をした梅宮だが、杉作氏は、そんなパブリックイメージも「演技」だったのでは、と推察する。
「『お客さんが喜んでくれることなら、やって恥ずかしいことは何ひとつない』という言葉が強く印象に残っています。昔の夜遊びも、夢を与える映画スターはかくあれ、という姿勢を貫くためだったということです。そういう意味でも映画、バラエティー、プライベートとさまざまな『幻』で楽しませてくれた梅宮さんは、本物の技術を持つ俳優だったと言えるでしょうね」
「不良番長」シリーズを手がけた内藤誠監督も、あらためて梅宮の演技を絶賛する。
「(『不良番長』は)山城の派手な演技に目を奪われがちだけど、今見直すと実にうまいんだ。彼の最後の映画出演作となった『明日泣く』(11年、ブラウニー)にはタダで出演してくれたし、最後まで本当に世話になった」
16年2月28日、安藤昇のお別れの会で、梅宮は献酒とともにこう寄せている。
「昭和の映画スターが皆無のような状態になり残念です。寂しいです、今は詮無いことです。どうか、そちらの世界でもお元気で」
その言葉をそのまま、梅宮へのアサ芸からの弔辞としたい。合掌──。