「マグマ大使」のモル役や、日本初の「失神女優」の呼び名で知られる應蘭芳は、梅宮と同じく「東映ニューフェイス5期」(58年)が出発点だった。誕生日が2日しか違わないこともあり、ほかの同期も含めて長らく親交を持ったという。
「私が経営する中華料理店が銀座にあった何年か前までは、年に1回はそこに集まっていたの。新伍ちゃんが生きていた頃は、彼もよく顔を出してたわ」
梅宮が女たらし、應は失神女優と呼ばれるようになったが、デビュー直後はまるで違ったと應は笑う。
「辰ちゃんは石原裕次郎をスリムにしたような二枚目だったから、同期のニューフェイスの子に猛アタックをかけられて大変だった。私に『どうしたらいい?』と相談したくらいだから、まだ純真だったわね」
應蘭芳が同期の桜なら、師匠と付き人という関係で過ごしたのが声優・ナレーターの十日市秀悦だ。81年から3年半にわたって住み込みで働いた。
その出会いは十日市が東映のエキストラだった時代、縁あって梅宮を紹介されたことに始まる。
「まずオヤジさんに言われたのは『免許持ってるか?』と。運転手を兼ねるという条件だったので、慌てて実家の八戸に帰り、3週間で『取りました!』と勇んで駆けつけたんです。そしたら、リンカーン・コンチネンタルですよ。まさか、初心者が左ハンドルとは思わなかった」
十日市は都内の道路を必死に覚え、返事は「はい」しか言えない直立不動の日々で、体重が1年で20キロも減ったという。ただし、梅宮自身が弟子につらく当たるということは1度もなかった。
「撮影所では『梅宮さんと里見浩太朗さんを怒らせたら、それは現場が悪い』の格言がある。撮影が待ちになると1番忙しいのは僕たち付き人で、楽屋と現場をまだかまだかと往復するんですよ。でもオヤジは『役者は待たされてナンボなんだ』と、機嫌をそこねることは1度もなかった」
大スターでありながら、スタジオ入りの際はスタッフに「おはようございます」と言い、深々と腰を曲げる。そんな姿勢を慕う後輩は多く、とりわけ安岡力也は「辰兄ィ」と尊敬の念を持ち続けた。グループサウンズのスターからキックボクサーに転身し、仕事がなくて食えない時代を「不良番長」で拾ってもらった恩を忘れなかった。
十日市が付き人を務めた時期はちょうど梅宮アンナが小学校の高学年だった時期だが、梅宮のパパぶりは、ほほえましかったと言う。
「運動会ともなると5合炊きの電子ジャーを3回も稼働させて、力也さんたちの分も含め、50個くらいのおにぎりと豪華なおかずをオヤジさんがすべて作る。それを持って熱心に応援するのが恒例でした」
かつての放蕩三昧から料理に生きがいを見出した梅宮は、ドラマの収録で出される料理も、すべて自分で作るようになった。
「メシを食うシーンで、本当にうまくないとうまいという顔はできないよ」
それが梅宮の口癖であった。