鶴光 もう1人、味のある噺家が(五代目古今亭)志ん生師匠。捕まえたネズミを「大きいだろ」「いや、小せえよ」と言い合いしていると、当のネズミが「チュウ」。こんな噺、誰もウケへん。でも、あの人やとウケる。それが味なんやね。
たい平 志ん生師匠の息子さんの(三代目古今亭)志ん朝師匠にも忘れられない言葉があって。二つ目になった直後、新宿末廣亭の深夜寄席の呼び込みをしていたら、昼席終わって飲んでいた志ん朝師匠が近づいて来て、「たい平、中途半端にだけは売れるんじゃないよ」って。「自分だけが食えればいいという狭い了見ではいけない。落語界全体が潤うようなスーパースターを目指せ」とハッパをかけてくださったんです。
鶴光 ウチの師匠の松鶴は志ん朝師匠をかわいがっていて、大阪に来た時、よく飲みに連れ歩いてた。ある時、忠臣蔵に絡めた落語「四段目」(上方では「蔵丁稚」)の稽古を頼みにきたことがあって、ワシらには半分裸で「やってみい、こらッ!」言うてたのに、松鶴師匠、その日は紋付着て、「誰も上げたらあかんぞ」ちゅう声も震えてる(笑)。志ん朝師匠、「芝居の師匠は三木のり平、落語の師匠は松鶴」て言うてはった。
たい平 関西で志ん朝師匠が独演会やると、上方の噺家さんのほぼ全員が来ているんじゃないかと思うぐらいに、袖に集まって。志ん朝師匠の芸を見逃すまいと見てる姿が、今でも忘れられないですね。
鶴光 一方、(七代目立川)談志師匠は、大阪に来て、「トリなら道頓堀角座出たる」と言うて。当時のトリは「♪毎度皆様おなじみの~」で人気の浪曲漫才・宮川左近ショーや。左近師匠、トリの直前にすごい芸をして大盛り上がり。談志師匠で幕が上がった時、客の半分は帰ってもうた。ほなら談志師匠、「オレの芸のわからないヤツは、今すぐ帰れ」。で、そのまた半分が帰ってしもて。そんな中、延々と意地の人情噺や。
たい平 すごいですね。
鶴光 談志師匠は志ん朝師匠にものすごくコンプレックス持ってたんやね。「芸歴も芸もオレのほうが上だ」て思うてたのに、真打昇進は5年入門の遅い志ん朝師匠に先を越された。志ん朝師匠のアイドル人気も悔しかったと思う。
たい平 僕の前座時代、師匠こん平が志ん朝師匠と飲んでいて、最後に「こんちゃん、もう帰ろうよ」と言うのをもう1軒、神楽坂に誘って、2人ともベロベロ状態。その時、僕が「志ん朝師匠とウチの師匠の両方の名前をいただいて真打になりたいんです」と言うと、志ん朝師匠、「何て名前?」「ここんペイ志ん朝です」(笑)。
鶴光 こん平師匠のあの飲み方。びっくりしたで。朝まで帰らしてくれんもん。噺家仲間の(瀧川)鯉昇なんか、途中で血便が出ましたで。
たい平 でしたよね。
鶴光 トリとった時、ウケた時は緞帳が下りてくるのが早う感じる。逆にウケなんだ時、早う下りやと思う。昔、地方でトリを務めた志ん朝師匠が「小言幸兵衛」やって、ダーッと幕が下りて‥‥きいへんのや。やっと下りて、志ん朝師匠、楽屋で「遅いよ」とボヤくと、こん平師匠が「聴き惚れてたもんで」やて(笑)。
たい平 うまいなあ。
笑福亭鶴光(しょうふくてい・つるこ)1948年3月18日、大阪市出身。67年、上方落語の六代目笑福亭松鶴に入門。74年からニッポン放送「オールナイトニッポン」などのパーソナリティとして人気。東京を拠点に上方落語の発展に尽くす。上方落語協会顧問。落語芸術協会上方真打。出囃子は「春はうれしや」。師匠譲りの豪快な話芸で「相撲場風景」「三人旅」などを得意にしている。J:COMJテレにて隔週土曜「オールナイトニッポン.TV@J:COM」、J:COMチャンネル関西エリアにて毎週土曜「ジモト満載えぇ街でおま!」に出演中。「まだ寄席が開いていた3月末に噺家仲間と楽屋で会うた時、初めは笑うとったのがだんだん自虐ネタになって。最近はそういう話題すら口にしなくなってもうたね」
林家たい平(はやしや・たいへい)1964年12月6日、埼玉・秩父市出身。武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業後、88年に林家こん平に入門。2000年、真打昇進。04年から「笑点」(日本テレビ系)に師匠の代役で出演、06年からレギュラー。04年と08年、国立演芸場主催花形演芸会金賞受賞。08年、芸術選奨文部科学大臣新人賞。19年、浅草芸能大賞奨励賞受賞。落語協会理事。武蔵野美大芸術文化学科客員教授。出囃子は「ぎっちょ」。BS朝日「新鉄道・絶景の旅」などに出演中。著作は「林家たい平の落語のじかん」など。「人間って素敵だなって思えるのが落語です。酔って失敗するなどダメ人間も登場しますが、本当の悪人は出てこない。人が出会う中で生まれる喜びや悲しみ、苦しみ全てを包み込んでくれます」