膨大なCMスポットとポスター展開により、キャンギャルは一夜にしてシンデレラになった。誕生から黄金期まで、忘れじのヒロインをプレイバック!
キャンギャル第1号となったのは、66年の資生堂のポスターに起用された前田美波里(71)である。当時としては大胆な水着カットに、ポスターの盗難が相次いだ。ただし──、
「水着写真ばかり求められるのはイヤ!」
前田は仕事を辞め、1年半のアメリカ旅行へ。復帰後、マイク眞木との離婚はあったが、念願だったミュージカルを中心に、実力派の女優として今も活躍を続けている。
初代のクラリオンガールに選ばれたアグネス・ラム(64)は、75年の初来日と同時に、空前のブームを呼んだ。あどけない顔だちのハーフの美少女が豊満なボディを持つというギャップが評判を呼び、雑誌のグラビアを席巻。「史上初のグラビアアイドル」と言われ、83年の引退まで鮮烈に駆け抜けた。その後、地元ハワイで双子の男の子を持つ母親となった。
その3年後、78年のクラリオンガールになった堀川まゆみ(62)は、ハーフ特有のエキゾチックな顔だちで女優としても活躍。だが、思いがけない理由で表舞台から姿を消す。
「本番の意味を知らずに引き受けてしまい、降板させていただくことになりました」
そう謝罪したのは、武智鉄二監督の「華魁」(83年、武智プロ)の撮影直前のことだった。事務所から「ヌードと本番があるけど」と念押しされ、まさか、ハードコアを意味する「本番」とは知らず、安易に引き受けてしまったというのだ。
この降板を契機に堀川は休業するが、その後「MAYUMI」の名で作曲家に転じ、数々のヒット曲を提供した。
80年代のセックスシンボルに君臨したのは、烏丸せつこ(65)だ。80年にクラリオンガールに選ばれると、映画でも豊満なバストを惜し気もなく披露。
のちにイエローキャブを率いて巨乳王国を築いた野田義治氏は、烏丸の「裸の胸にレイをかけたポスターこそが、グラビア写真としての最高峰」だと称賛している。一時は休業が続いたが、女優復帰後は朝ドラ「スカーレット」(19~20年)などで個性的な演技を見せている。
〈ガールフレンドとオイルは、いつも新鮮なのがいい〉
こんなキャッチコピーを添えられたのは、79年に共同石油のイメージガールに選ばれた沢田和美(57)だった。同年の旭化成のキャンギャルも兼務するなど、売れっ子モデルに君臨。
さらに163センチ、B86・W63・H88の肉感的な肢体はスクリーンでも重宝され、日活ロマンポルノでも主演を張った。95年のヘアヌード写真集を最後に引退したが、まだカムバックには十分な年齢だろう。
昭和最後の年である88年のクラリオンガールに選ばれたのは、今や立憲民主党の顔である蓮舫(52)だ。ともにレギュラー司会を務めたビートたけしが「クラリオン史上、最も貧乳」と揶揄したのも有名な話である。
逆にプロポーションを補うためにトーク力を高め、やがて国会議員としての活動につながっていったのはご承知のとおりだ。
97年に大磯ロングビーチの広告塔を務めたのは、当時イエローキャブの一員だった山田まりや(40)である。同事務所にしてはCカップとさほど巨乳ではなかったものの、明るい性格と抜群のトーク力で売れっ子タレントに成長する。
山田は「売れたら水着だけでなく服を着させてもらえる事務所」の名言を残したが、現在は子育てと並行して、舞台を中心に活躍を続けている。
99年にアサヒビールのイメージガールに選ばれた伊東美咲(43)は、ドラマ・映画・CMと幅広く活躍。だが、それから10年後の09年、大手パチンコメーカー「京楽」の榎本善紀氏と結婚し、1男2女の母に。
実は引退したわけではなく、何度となく活動再開をアナウンスしたが、今なお子育てに追われて復帰はできていない。
93年のクラリオンガールをきっかけに、女優やバラエティー番組の司会でも重宝された立河宜子(50)は、01年に歯科医との結婚を理由に芸能界を去った。
ただし、夫とは05年に離婚。現在はエステサロンを立ち上げ、社長として辣腕を振るっている。
最後は06年の東レキャンギャルが出発点だった山岸舞彩(33)である。キャスターに転向後、NHK「サンデースポーツ」や日本テレビ「news zero」でも破格の扱いだったが、「zero」のプロデューサーによるセクハラ被害は大きなニュースとなった。
16年の結婚を前に芸能界を引退したが、現在は書家として新たな才能を発揮している。