ともに主力を張った新庄剛志氏と桧山は仲がよく、よく飲みにも行った。新庄氏は桧山の引退試合には「ぜひ駆けつける」と話しているという。ある時、球団関係者はベンチ裏で、桧山のこんな話を耳にした。
「新庄が歌手のMを誘って一晩過ごしたらしいんだけど、アイツ、脚フェチだから(Mの)細い脚をひたすら触ってナメてたんだってよ。しょうがないわな」
Mといえば、かつて広島の主力との交際、結婚が噂されたスレンダー美女だが、桧山の暴露が爆笑を誘ったのは言うまでもない。
さて、桧山に転機が訪れたのは99年、野村克也監督が就任したことだった。スポーツライターが言う。
「野村ID理論を叩き込まれ、狙い球のしぼり方を教わりました。状況に応じた打撃です。例えば『巨人戦、斎藤雅樹が完封目前で阪神の攻撃。一死二塁でカウント2-1。桧山、お前は何を狙う?』という感じです。桧山が答えると『その根拠は?』と聞かれる。そうしたシミュレーションを徹底的にやった結果、01年には28試合連続安打という当時の球団記録を更新、打率3割も達成したのです。ある意味、野村ID野球を具現化した唯一の阪神選手かもしれない」
みずからの指導により4番として一人前になった桧山について野村氏は、
「(3年連続最下位で)阪神では何も残せなかったけど、唯一の遺産は桧山や」
と話しているという。遊軍記者が話す。
「ノムさんが楽天監督時代などは、オープン戦、交流戦の阪神戦では必ず、桧山は挨拶に行っていた。ノムさんも『阪神の選手は誰も来んやろ。でも桧山だけは来てくれるはずや』とボヤき、そのやさきに桧山が挨拶にやって来る、そういうシーンが毎年のように見られました。桧山も『野村さんのおかげで打てるようになった』と感謝しています」
4番として開花した桧山は、大幅な選手の入れ替え、大規模トレードを敢行した星野仙一監督の下でも活躍し、03年のリーグ優勝に貢献する。
「低迷期にチームを支えていた選手が、外様だらけの中で4番になってくれている。そこに阪神ファンは共感するのです」(関西マスコミ関係者)
その直後、04年1月1日付の韓国紙「統一日報」のインタビューで突然、在日韓国人であることをカミングアウトし、ファンを驚かせた。「韓国パワー、日本で全開」と題するこのインタビューでは「韓国人魂みたいなものを見せたい」などと話している。
「入団時からそれは隠さずに言ってましたからね。不振に陥った07年には韓国の球団からオファーがありましたが、断ったため、公にはなりませんでしたね」(前出・デスク)