ティーンエイジャーのあどけない子が多かった70年代アイドルシーンに、大人の美女が参入。あべ静江(69)の美しさには、誰もが目をみはった。
──歌手デビュー以前は、愛知の東海ラジオで人気DJとして鳴らしていました。
あべ 地元の女子大に行きながらDJをやっていたんですけど、私の中では「裏方」という認識。番組でデビューしたばかりの南沙織ちゃんをお迎えしたりしていましたね。
──裏方から表舞台へ、当時としては年長にあたる21歳でデビューすることに不安はなかったですか?
あべ 年齢に関しては‥‥精神年齢が低かったのかしら(笑)。あまり意識はしませんでした。
──73年は歌謡界の威光が強かった時代ですが、なぜ「シンコーミュージック」という異色の事務所に所属したのですか。
あべ 1年前にデビューしたのがチューリップで、私の翌年にデビューしたのが甲斐バンドだったんですよ。これは私の強い意向で、いかにも芸能界という体制のところには行きたくなかった。ラジオをやっていたので、そうした部分も見てきましたし。それでシンコーにお世話になりました。
──デビュー曲「コーヒーショップで」は、作詞・阿久悠、作曲・三木たかしと、のちに石川さゆりの「津軽海峡冬景色」(77年)などを手掛ける黄金コンビの初顔合わせでした。
あべ レコード会社の社長が阿久先生のところに依頼に行ったら、当時スランプだった三木先生が相談にいらしていたんです。そしたら阿久先生が「作曲は三木さんで」と即決されて。
──28万枚を売り上げるヒット曲になり、三木たかしも低迷を脱却する出来栄えに。続く「みずいろの手紙」も同じコンビの作品です。
あべ これは私、レコーディングで「歌いたくありません!」とストライキ状態だったんですよ。
──あれほど清らかな名曲をなぜ?
あべ 阿久先生には申し訳ないのですが、いかにも「男が描く女性像」で、あんなに手紙をずっと待っているなんて、私には理解できませんでした。特に歌い出しの「今でも愛していると言ってくださいますか」の部分。男に未練がましい女の歌に思えたんです。レコーディングは、大人の説得で了解しましたけど。
──26万枚を売り上げる大ヒットで、翌74年には紅白歌合戦にも初出場を決めましたが。
あべ それ以降、ずっと封印している状態でした。ところが、靖国神社で歌う機会があって、そこで私、ボロボロ泣いちゃったんですよ。戦時中において、戦地で手紙を受け取る人々の姿が浮かんできて‥‥。
──たしかに、そういう解釈もできます。
あべ それからは大事に歌わせていただいています。
──話題を変えて、ずっと「芸能界の酒豪横綱」と呼ばれていることについて。
あべ 実際、そうです(笑)。あれはカルーセル麻紀さんとお酒をご一緒したあと、「この人、強いわ!」と、あちこちでおっしゃったことで有名になりました。大好きな日本酒は、お相撲さんもそうですが、体の中から光が出るような肌にさせる効果があると思います。
──歌手協会の理事も務めていますが、昨年来のコロナ禍はダメージでしたね。
あべ それでもようやく、4月から「夢グループ」主催の合同コンサートを再開できたんです。客席は定員の50%以内で、皆さんマスク着用ですが、目だけでも喜んでいただけている様子が伝わってきます。
──それこそが「歌の力」ですね。