〈おやじ、涅槃で待っている〉
そんな遺書を残して、沖雅也(当時31歳)が、高さ170メートルの新宿「京王プラザホテル」47階から飛び降りたのは、1983年6月28日だった。
翌29日、所属プロダクション「JKプランニング」の社長で、沖の養父だった日景忠男氏が、沖の自宅前で記者会見を開く。「自死の原因はわからない」としながら、沖に対する「同性好き」の噂を打ち消した。
だが「彼が僕の全てだった」と言い切る、沖に対する自分の気持ちを整理できず、時折天を仰いで泣きじゃくるなど、会見はボロボロ。世間の好奇の目を増幅させる結果になってしまった。
ところが、芸能界とは不思議な世界だ。そんな日景氏のキャラクターに目をつけたテレビ局が同氏を「トランスジェンダーの芸能・風俗リポーター」として起用。ワイドショーでは「美少年評論家」なるタスキをかけて、繁華街を自転車で走り回る…そんな奇妙な演出が話題になった。
私が日景氏をインタビューしたのは、80年代後半。場所は当時、彼が営んでいた新宿2丁目の喫茶店「シンドバット」だった。
九州から家出してきた16歳の沖と日景氏が知り合ったのは、池袋の「ぐれえ」というバー。日景氏によれば、月12万円を払う約束で週に一度、部屋に来てもらうようになったという。
「私は同性好きだけど、彼は違っていた。沖は食っていく手段として、仕事を選んだだけ。普通に女性が好きな男でしたね」
しかし、日景氏の沖への思いは強くなる一方だった。沖のために「一騎プロ」(のちのJKプランニング)を立ち上げると、社長兼マネージャーとして常に寄り添った。
「もちろん、肉体関係もありました。でも、その行為は何の愛情もない、乾いたものでした」
沖の様子に変化が表れたのは、81年頃である。この年の4月、沖は東名高速でガードレールに衝突する事故を起こしているが、その原因は、
「ノイローゼによる自死未遂でした」(日景氏)
そして運命の日となる、6月28日がやってくる。日景氏のこんな言葉を憶えている。
「私の人生は、沖が死んで終わりました。だからもう、死ぬことは怖くありません。あの世で沖は待っていてくれます。いつかある日を楽しみにしています」
私が一部報道で日景氏が2015年2月に亡くなっていたことを知ったのは、最近のことである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。