4月8日(日本時間9日、ヤンキースのイチロー(40)が日米通算で3018試合出場を果たし、これまでプロ野球最多出場記録の3017試合を誇っていた、野村克也氏(79)の記録を塗り替えた。
ところが、イチローが記録更新に際して発したコメントは素っ気なかった。
「出ているだけでカウントされるものに僕は価値を見出せない。それに尽きる」
あまりに冷めていた原因をめぐり、球界関係者はこんなことを口にした。
「09年に日米通算安打で張本勲氏(73)の3085本を越えた時には、張本氏が米国まで駆けつけていたということもありますが、誠意ある対応をしていた。今回、記録自体にケチをつける発言をしたのは、それまでの記録保持者がノムさんだったからじゃないですかね」
イチローと野村氏の間には、根深い確執があるというのである。当時を知る、スポーツライターが語る。
「実は、イチローがメジャーに戦場を求めたきっかけはノムさんだったとも言われているんです」
なんとも聞き捨てならないが、2人の接点といえば、95年のヤクルト対オリックスの日本シリーズが思い出される。
当時、「野村ID対仰木マジック」と謳われたシリーズだ。試合前から両監督の舌戦が展開され、シリーズに入ると、飛ぶ鳥を落とす勢いだった天才打者・イチローをヤクルトが封じてみせ、野村IDに凱歌が上がった。
「野村監督はシリーズ前からメディアを使って、イチローへの内角に弱点があるようなことを吹聴し、インコース攻めを予告した。ところが、実際には転がされても足があるイチローには内野安打がありますから、外角高めでポップフライを打たせるためにインコースを意識させる作戦だったんです。当時のヤクルトにはブロス、石井一、山部など、速球派が多かったため、この作戦は功を奏しました。しかしイチローは『あんなのは野球じゃない』と純粋な勝負ではない日本野球の一端に嫌気が差したというのです」(前出・スポーツライター)
ところで、野村氏のほうもその後、解説者としてイチローについて、「自分の成績のために野球をしている」などと酷評し続けたのだ。
2人の確執を知る、球界関係者が解説する。
「そもそもノムさんは、94年に彗星のごとく登場して年間200安打を達成したイチローをベタ褒めしていたんです。『親の教育がいいからだ』とまで口にしていた」
ところが、雲行きが変わったのは95年のオールスター戦だったという。
「移動の飛行機で偶然にして、ノムさんの真ん前の席がイチローになったんです。座る際には目も合っていて、気づかないはずはないのに、イチローが無視するような形になった。ノムさんはそれ以来、『挨拶もせえへんのか。教育がなっとらん』とイチローを口撃するようになったようです」(前出・球界関係者)
結果、日本シリーズで不本意な抑えられかたをしたイチローは、数年後にメジャーの道へと進んだのだ。
「ノムさんが考えた、イチローに外角高めを打ち上げさせる戦法はメジャーの対戦球団も踏襲しているんですよ」(前出・球界関係者)
イチローにとって野村氏は、本当に顔も見たくない相手なのかもしれない。