「いない?」
「やっぱり、いない」
僕と連れ合いのゆっちゃんは、途方にくれた表情で顔を見合わせた。いつかこんなことが…。そう思いながらかわいがっていた猫だったが、現実になった瞬間だった。
クールボーイ。体のほとんどは白い毛に覆われているが、顔の左の耳の部分が三毛で、お腹の心臓がある辺りの両方に、淡い黒っぽい丸い模様がある。ゆっちゃんが「フランス語で、心臓はクール。男の子だから、クールボーイがいい」と言うので、この名前になった。
そのクールボーイがどうやら脱走したらしい。この時点ではまだ、らしいというしかなかった。家の中から忽然といなくなった、もしくは消えたのだから。
「本棚の奥や、よく人が来ると隠れるところにも、ママ(ゆっちゃんの母)が使っていた和室の箪笥の奥、押入にも、どこにもいない」
家の中はくまなく探し回った。焦りながら。
どこの家の猫も、小さな隙間や物陰にマイワールドを作って、人の目から逃れる。人見知りのクールはしょっちゅういなくなった。人が近づくと逃げてしまうのだ。懐かず、いつのまにか消えてしまう、いわゆる幻の猫。
しかし、この時ばかりは気配が違った。2人とも、いつもと空気が違うことを、なぜか察知できた。いないという確信のようなもの、だった。
クールボーイは知人のMさんを介してもらってきた、保護猫だった。保護猫団体のお手伝いをしているMさんから「もう一匹、どう?」という悪魔の囁きがあったのは、3年ほど前だった。
「いやぁ、2匹で手いっぱい」
「多頭飼いは楽しいし、多頭飼いする人は2匹よりも3匹の方がいいって言うわよ」
我が家の猫は、最初がゆっちゃんが道で出会って連れてきて、そのまま居ついてしまったジュテと、Mさんが「いい猫(こ)がいるわよ」と連れてきてくれた保護猫のガトーの2匹。
迷った末、しばらくしてMさんに誘われ、保護猫の団体を運営し、譲渡会を定期的に開催しているNさんの保護猫施設に2人で出かけてみた。子猫たちはガラス張りの部屋でじゃれ合ったり、仲間から離れて丸くなって寝ていたり。その姿はどれもかわいらしく、見るからに子猫という愛らしいタイプから、ちょっとブチャな愛嬌があるタイプもいて、目移りするばかりだった。
その時、「この猫だけはなぜか寄りつかない」とNさん。その猫が天井近くの渡し板の奥の方に潜んでいて、ジッとこちらを見ていた。「そことここにも白い猫がいるでしょ。3きょうだいで3匹一緒に保護したんだけど」ともNさんは言う。
この猫だけはダメだろうな、と思った。3きょうだいなら、それ以外の2匹だ。
ところがゆっちゃんは、奥にいる猫を指さしたのだった。
「あの猫は顔の模様が変わっている。絵に描いたらとてもいい感じ」
絵描きのゆっちゃんは物事の判断を、そういう視点で考える。ジュテもガトーも、絵の中に登場する。それが意外と評判がよく、猫好きの人が目を細めて見ていたりする。
いいも悪いもなく、その場でその白猫を連れ帰ることになった。ガトーに続いてNさんから譲り受けた2匹目である。
保護猫を飼う場合、一定のお試し期間があり、その間、問題がなければそのまま飼うことができる。我が家の場合、問題は先住猫のジュテ、ガトーと折り合いがいいかだが、ガトーもかわいがって育てているから、Nさんは安心して譲ってくれた。
ただし、保護猫を飼う人は、気を付けなければならないことがある。途中で放棄しない、虐待しないのは当然だが、最もありがちな脱走を避けなければならない。どんなにかわいがっても、野生の記憶の中で生きる猫は自由に歩き、走り回りたいという願望を抑えることができない。だが、命を長らえるために、事故などから守ってあげなければいけない。そのためには猫にとって少々不自由でも、脱走はなんとしても防がなければならないのだ。
ただ、そうわかってはいても抜け穴、落とし穴が…。
(峯田淳/コラムニスト)