いいか悪いかは別にして、とりあえず自分が置かれている立場にいったんけじめをつける。実は、そんな再出発の場所として記者会見が利用されるケースは少なくない。
ただし、それが大スキャンダルの後、ということになると、そこに座らされる人物にとっては「針のムシロ」となるのだが…。記憶に残るそんな会見が、90年6月22日、京都・太秦の京都映画撮影所で行われた、女優・荻野目慶子のそれだったように思う。
会見から溯ること53日の4月30日。彼女の恋人で15歳年上だった映画監督のA氏(当時43歳)が自ら命を絶った。その場所が彼女の自宅マンションだったこと、さらに荻野目自身が第一発見者だったことで、大きな衝撃が走った。
2人は映画「幕末青春グラフティRONIN 坂本龍馬」で、監督と出演者として出会い、いつしか深い関係に。しかし、A氏には妻子がいたため、2人の関係は「許されぬ恋」。そして「事件」直前には、別れ話が出ていたという。
とはいえ、留守中に恋人が自分の部屋で命を絶つという、壮絶な場面に出くわした荻野目のショックは大きく、入院することに。女優業も休止することを余儀なくされていた。
そんな彼女がオファーを受けていた松竹映画「陽炎」(五社英雄監督)の撮影に参加。奥山和由プロデューサー同伴で、はじめて口を開くことになったのが、A氏の四十九日法要を終えた、この日だった。
200人を超える報道陣の前に現れた彼女は頬もこけ、憔悴しきった表情で時おり声を詰まらせながら、こう語った。
「A監督は純粋な方で、表現することの素晴らしさを、いつも教えてくれた人です。与えられた命を、素晴らしい才能を、そして、どんなにか心配していた友達のことを、もっと大切にしてほしかった。不器用な生き方と愛し方をしてきて、人をこんなに傷つけてしまい悲しかった」
別れ話を切り出したのは彼女だったというが、「1人になりたい」と告げる荻野目に、A氏は「そんなこと(死んだほうがいい)をおっしゃったこともありました」と唇をかみしめる。
女優復帰については、「私を必要としてくれる人がいたことがとてもありがたく、一生懸命やらせてもらうことにしました」と新たな一歩を踏み出す決意を覗かせると同時に、「人を愛し、信じることを忘れてしまったら、女優というお仕事はできません。愛するということは、忘れたくありません」と語った。
その表情から私は、彼女が内包する情念と、女優としての魂のようなものを感じたものだ。
まさに、事実は小説より奇なり。それは小説や映画を上回るような波乱に満ちた復帰劇だったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。