昨年暮れ、女優・のんが企画・脚本・監督・主演を務めた映画「Ribbon」を見た。
周知のように「のん」という名前をめぐっては、芸名を巡るトラブルにより、本名の「能年玲奈」で活動することが出来なくなった彼女が16年7月、再出発するにあたり「女優・創作あーちすと『のん』」と、芸名を改めた経緯がある。
のんの映画を見ながら、ふと思い出したことがある。かつて「芸名」を巡るトラブルで裁判沙汰となり、「2人の同名俳優が出現」するという珍事が起こったのだ。それが93年7月に勃発し、なんとNHKまでもが真正面から報道して社会的問題になった「元祖・加勢大周VS新加勢大周」の大騒動だった。
コトの起こりは91年、加勢が所属事務所「インターフェイスプロジェクト」(以下、インター)に不信感を抱き、契約解除を申し出て法廷闘争へと発展したことにある。
しかしその後、同社社長が、加勢の母親が代表を務める新事務所を「芸名使用禁止」と「新事務所との契約は無効」として提訴。裁判の結果、インター側が敗訴し、加勢は「加勢大周」のまま芸能活動を継続できることになった。
ところが、可愛さ余って憎さ100倍とはよく言ったもの。インターの社長が「スター性があるオーラを感じた」としてスカウトした若者を、なんと「新加勢大周」として芸能界デビューさせることになったのである。
93年7月7日、東京・港区の「八芳園」で午後1時から始まったお披露目会見には、NHKをはじめテレビカメラ8台、80人を超える報道陣が集まり、新加勢大周こと、のちの坂本一生が黒いタンクトップにジーンズ姿で登場。
生まれて初めてという記者会見では、高卒後2年間のオーストラリアへの語学留学に触れ、記者から「この騒動についてご存知でしたか」と質問されると「ご存知です!」と返答。かわいそうになるほど、緊張でガチガチだった。結局、会見は予定を30分以上もオーバー。その間、記者たちから質問攻めにあうことになった。
だが、騒動はこれだけでは終わらない。くしくも同じ日の午後4時半、今度は「元祖」加勢が大阪・梅田の新阪急ホテルで映画「クックドゥードゥルドゥ -田所家の人々-」の製作発表会見に臨むとあり、そちらにも報道陣が大挙して集結。「新加勢」についての質問はNGとされたが、報道陣がそんな要望を聞くはずもなく、質問が飛んだ。
「答えるような義務はないですが…第2の加勢君がボクより売れたらまずいよなぁ。せめて名前の1文字を変えてほしい。2年間も裁判をやったんだから」
そう言って、加勢は辛い胸の内を明かしたのだった。
ところが急転直下、20日後にはインター側が「加勢」の名前を本家にプレゼントする、と言い出し、騒動はあっさりと終息。「坂本一生」波乱の人生の幕が開くことになるのだった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。