1986年4月8日、東京・飯田橋の外堀沿いの桜は満開だった。私は語学学校で有名なアテネフランセの中庭で、フランス人の男性教員と2人で昼食を摂っていた。そこからは桜並木と、お堀で手漕ぎボート遊びをしている人たちが見える。長閑で天気もよいい最高の日和だったが、まさかこの後にとんでもないことに巻き込まれるなど、全く想像していなかった。
彼は南仏プロバンスにいる私の友人の兄で、ニューヨークから東京に職場を変えたばかりだった。弟から私の事を紹介されたので、会うことになったのである。
そうして談笑していると、腰のポケベルが振動したので、当時所属していた週刊誌の編集部に連絡を入れた。
「岡田有希子が飛び降りたんだよ」
衝撃だった。カネボウのCMソングになった「くちびるNetwork」が大ヒットし、オリコンチャート初登場1位を記録。まさに人気絶好調で、大歌手へ仲間入りの時期だったからだ。
「いつ、どこで亡くなったんですか」
「さっきだ。サンミュージックの社屋の屋上から投身した」
私は昼食を途中で止めて男性教員に事情を説明し、近くに駐車していた車でサンミュージックがある四谷に向かった。
現場に到着すると、遺体はすでに四谷警察署に運ばれていた。まだ取材記者の姿もない四谷署で事情を聞き込むと、どうやら4階の柔道場に遺体が安置されているらしい。
岡田はこの日の朝に南青山の自宅マンションでリストカットし、ガスの栓を開けっぱなしにして、ガス自死未遂事件を起こしていた。マンションの住民がガス臭いと通報して北青山の病院に運ばれたが、治療後にサンミュージック本社に連れられていき、そこで事情を聴かれた。
いち早くその情報を得たのが芸能レポーターの梨元勝氏で、彼は「スポーツ報知」の記者とともに、サンミュージックに向かった。そこで、うつ伏せで歩道に横たわっている遺体と対面することになったのである。
南青山のマンションに岡田が引っ越してきたのは、自死4日前の4月4日のことだった。それまではサンミュージックの相沢秀禎社長の、成城学園にある自宅で同居していたが、高校を卒業したことで一人暮らしが許可されたのである。ただし、この南青山のマンションは仮住まいであり、オートロックのセキュリーティーがしっかりしたマンションを探している最中のことだった。
南青山のマンションにも取材陣はまだ到着していなかったが、管理人が開いたドアから部屋を見せてくれた。とはいえ、これといったヒントはなく、当然のことながら中に入ることもできなかった。
すると今度は「相沢社長のところへ行ってくれ」という指示がきた。やがて相沢社長宅に着くも、やはり取材陣はまだいなかった。
そのうちに、いろいろと情報が入ってきた。「どうやら赤羽に付き合っていた男がいたみたいだ」「俳優の○○を慕っていたようだ」というものであり、真偽のほどは全く分からなかった。
そうこうするうち、顔見知りのスポーツ紙記者が数人、集まってきた。情報交換をすると、岡田の憧れの俳優が峰岸徹ではないか、との見方を各社ともしていることが分かる。当時の峰岸の自宅は成城学園の隣駅の喜多見にある。42歳の峰岸と岡田には24歳の差があった。生前の岡田とは何回か会ったことがあったが、躁鬱の激しい娘であるという印象を持っていたし、そのように言う関係者もいた。
峰岸の事務所を通じて、マネージャーと連絡が取れた。
「峰岸さんの自宅前で囲みの記者会見をできませんか。我々は成城学園にいますから」
仲間の記者たちが電話ボックスで喋っている私に、熱い視線を送ってくる。マネージャーは渋っていたが、私は説得するのに必死だった。
「今、記者会見から逃げたら、岡田と何かあったのだろう、とみられますよ」
「何もないんですから」
「それじゃあ、記者会見をした方がいいです」
夕方の成城学園で、私は何度も何度もマネージャーを説得していた。15分後にマネージャーと連絡を取ると、
「峰岸が記者会見をすると言っています」
ホッとしたのを覚えている。ところが、である。
「19時からTBS本社の中庭でやりますから」
成城学園から各社の記者を乗せた車が、赤坂のTBSを目指して競争が始まったのである。夕方の渋滞に捕まりながら、世田谷通りから国道246で赤坂を目指した。やっとTBSに着いたのは19時少し前で、中庭には100人を軽く超える記者たちが詰めていた。
「ちゃんと順番に並べよ」
他社の記者から睨まれた。記者会見をやるようやっと説得したのに、前に行こうとした私たち成城から来た報道陣は、列の後ろに並ぶしかなかった。理不尽すぎる一日は、今も鮮明な記憶として残っている。
その週の金曜日に、岡田有希子が飛び降りた場所で、うつ伏せで横たわった写真が「FRIDAY」と「スポーツ報知」に掲載されて、大きな騒ぎとなった。なぜ2社が同時に掲載することになったのか。
「写真を撮ったのは報知でしたが、あまりにもクリアに撮られたので、その影響がとんでもないことになりそうだと、社内でも掲載を躊躇する意見が多かったんです。そこでもう1社に掲載してもらって、衝撃を緩めようとしたんです」(スポーツ報知関係者)
後追い自死者が多く出たことで「ユッコ・シンドローム」と呼ばれる現象も起きた。今でも命日にはサンミュージック前で花を手向けるファンがいるという。あれはやはり、とてつもなくショッキングな出来事だったのだ。
(深山渓)