夫のため首をはねられた、戦国時代の絶世の美女がいる。「だし」または「荒木だし」という。永禄元年(1558年)生まれと伝えられ、「立入左京亮宗継入道隆佐記」によれば「いまやうきひ(今楊貴妃)」と評されている。
だしは摂津有岡城主・荒木村重の妻だった。村重は紆余曲折の末、織田信長の配下になった人物だが、忠誠を尽くさず、天正六年(1578年)に謀反を起こす。有岡城の戦いである。
当初は果敢に抵抗したが、翌天正七年(1579年)、毛利軍に助けを呼ぶため有岡城を抜け出し、嫡男・村次の居城である尼崎城へ向かう。
指揮官がいない軍団では、信長軍に対抗できるわけがない。籠城の指揮を執っていた荒木久左衛門は荒木一族と有岡の将兵の助命を嘆願し、その条件として、尼崎城にいる村重の説得と開城を飲んだ。
開城後、だしらは織田軍の捕虜となり、村重が説得されるのを待った。だが村重は説得を拒否し、抵抗を続ける。説得役の荒木久左衛門は信長の逆鱗に触れることを恐れ、雲隠れしてしまう。
メンツを潰された信長が、この村重や久左衛門の態度に激怒しないわけがない。おいの津田信澄に命じて、だしら37名の荒木一族を京都に護送。12月16日に六条河原で処刑してしまったのだ。
この3日前には尼崎城外の七松で、人質の女房たち122人が磔にされた上、鉄砲、やり、なぎなたなどで殺害されている。当時、122人の女房たちが一度に悲しみ叫ぶ声は天にも響くばかりで、見物に集まった人たちの涙を誘ったと伝えられている。また、512人が4軒の家に押し込められ、焼殺されたという。
だしの最期は「信長公記」などを通じて、後世まで語り継がれている。護送の車から降りた後、帯を締め直し、髪を高く結い直し、小袖の襟を開いて首を差し出すという厳然とした態度だった。享年21とも24ともいわれている。
一方の村重は天正八年(1580年)3月、船で毛利領へと逃走。その後、「道糞(どうふん)」などと名乗り、茶人として52歳まで生き延びたという。
(道嶋慶)