妹を溺愛した、希代のシスコン戦国大名がいる。天文15年(1546年)年の元日に出羽(今の山形県)で生まれた最上義光(もがみよしあき)だ。
戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍し、出羽山形藩57万石の初代藩主になった義光は、幼少期から体格がよく、身長は約180センチ以上もあったという。当時、男性の平均身長は160センチ弱で、まさに巨人だ。当然、力も強く、武勇に優れていた。
永禄4年(1561年)、16歳の時に父の供で高湯温泉(現・蔵王温泉)へ湯治に行った際のこと。鹿狩りの後、眠りについていたところ、盗賊数十人に襲われた。義光は先頭に立って戦い、顔に複数の刀傷を受けながら、2人に重傷を負わせ、1人と組み合って刺殺したという。
2歳下の妹・義姫(よしひめ)への溺愛はある意味、常軌を逸していた。義姫はのちに伊達輝宗に嫁いで政宗を生んだことで知られる人物だ。その妹とマメに手紙のやりとりをし、ラブレターのようなものを何通も送っている。
妹にメロメロだったことを示すエピソードがある。天正16年(1588年)に起きた大崎合戦でのことだ。伊達政宗が1万人の軍勢で義兄の大崎義隆を攻撃すると、政宗と敵対していた義光は援軍5000人を派遣した。戦いは義光・義隆連合軍が完全に有利だったが、義姫が両軍の間に自分が乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、義光は和睦を屈辱と感じながらも、これに応じている。妹の願いで戦国武将が戦を止めるなど、前代未聞だろう。また、義姫と政宗との親子仲が悪くなった際には、義光がその身元を引き受けて、面倒をみている。
義光は無類の鮭好きゆえ、鮭様とも呼ばれていた。越後の上杉氏との戦いで、鮭の産地として有名な庄内平野を手入れた際には「鮭が食べられる」と手紙に書いているほどだ。また、徳川家康などには、庄内平野の川で捕獲した鮭を塩漬けにしたものを、贈答品として贈っている。
(道嶋慶)