「みちのく忠臣蔵」を知っているだろうか。主家の南部(盛岡)藩と遺恨がある津軽(弘前)藩の藩主・津軽寧親に対する襲撃を数人で計画した「相馬大作事件」である。その首謀者が「暗殺者」と呼ばれた相馬大作こと、下斗米秀之進だった。
事件が起きたのは、戦国時代末期から安土桃山時代。弘前藩初代藩主・大浦為信(のちに津軽為信)の時代に端を発している。
もともと大浦氏は、南部藩主となった三戸氏(三戸南部氏)と同じ一族だった。ところが為信が1571年(元亀2年)に挙兵して同族を攻撃し、津軽地方と外ケ浜地方および糠部の一部、約10万石を横領。その後、豊臣秀吉から所領を安堵されて、正式に大名になってしまった。
さらに、津軽藩9代藩主・津軽寧親が功により、南部藩主・南部利敬と同じ従四位下侍従という官位を与えられた。南部藩にとって、津軽藩は元同族でありながら約10万石を横領した謀反者であり、それに並ぶのは屈辱だっただろう。
そのストレスもあり、南部利敬は若くして逝去。大作は大恩ある南部利敬の無念の晴らすため、津軽寧親に書状を送って辞官隠居を勧めが、聞き入れられるはずもない。そのため「悔辱の怨を報じ申すべく候」として、殺害を計画する。
参勤交代で通る秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢)付近で、大砲や鉄砲で襲撃しようと待ち構えたのだ。ところが密告によって、寧親一行が別ルートを通り帰還したため、暗殺は失敗に終わってしまった。
この失敗を機に江戸に逃亡したが、津軽藩には「早道之者」と呼ばれる忍者・隠密がいた。彼らの働きにより捕縛されて1822年(文政5年)、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられた。33歳だった。
だが数年後、津軽寧親が隠居し、結果的に大作の目的は達成された。そのため、この一連の事件は「藩主の無念を晴らす報恩の行動」と評価され、「赤穂浪士の再来」ともいわれるようになった。
大作は単なるテロリストではない。28歳の時には北海道を視察し、ロシアからの侵略に危機感を強め、日本を守る人材を育成することを決意。1818年(文政元年)、故郷に門弟200人を超える私塾「兵聖閣」を開いて人材育成に力を注ぎ、その思想はあの吉田松陰にも影響を与えた。
(道嶋慶)