メジャーリーグでは毎年、4月15日に「ジャッキー・ロビンソン・デー」が開催されている。これは、ロビンソンが初の黒人選手としてドジャースでデビューした1947年4月15日にちなんでおり、1997年4月15日にはデビュー50周年を記念して、全球団でロビンソンの背番号42が永久欠番となっている。
日本にも名選手の功績をたたえ、その選手が背負っていた番号を永久欠番にする球団は多い。巨人では長嶋茂雄終身名誉監督の「3」、王貞治ソフトバンク会長の「1」などがそうだが、実は意外な永久欠番がある。
その背番号「4」を付けてプレーしていたのは、黒沢俊夫。1914年6月10日生まれの黒沢は大阪府立八尾中学校時代、甲子園大会に春夏合わせて5回出場。関西大学へ進学し、主砲として黄金時代の立役者となった。
1936年に名古屋金鯱軍(現・中日)の結成に伴って入団。その後、二度の兵役で球界を離れたこともあったが、1943年に西鉄軍に復帰する。
だが1944年に、太平洋戦争による資金難や徴兵による選手不足のため、西鉄軍は解散。のちに中日や日本ハムで監督を務めた近藤貞雄らとともに、東京巨人軍へ移籍した。
その後、第14代4番としてチームを支えた時期もあったが、1947年のシーズン中に腸チフスを発病。東大病院に入院したが、6月23日に33歳の若さで急死してしまう。
現役選手のまま病死するという異例の事態でもあり、球団葬が執り行われた。遺言となった「自分が死んだら、巨人軍のユニフォームのまま葬ってほしい」の言葉に従い、遺体はユニフォーム姿で棺に納められた。
そして球団は、戦時下に球団史上初のトレードで加入し、病に倒れるまで活躍した功績を認め、戦死した沢村栄治の「14」とともに「4」を永久欠番とした。
プロ野球12球団で背番号「4」が永久欠番となっているのは、巨人だけである。
(阿部勝彦)