記者会見の最前列で筆者が目にしたのは、サングラスでも隠し切れないほどの、左目下の大きなアザと、右腕に貼られた痛々しいバンドエイドだった。
1972年に小説「手鎖心中」で直木賞を受賞、小説以外にも「こまつ座」の座付き劇作家として数々の名作を世に送り出してきた井上ひさし氏(2010年、75歳で死去)。その妻で「こまつ座」主催者だった好子氏(現・西舘)の泥沼不倫スキャンダルが連日ワイドショーを騒がせたのは、今から三十数年前、1980年代後半のことである。
2人は知り合って1週間後に電撃結婚。その後、1958年に「こまつ座」を立ち上げて以降、好子氏は妻としてだけでなく、名マネージャーとして25年間、井上氏を支えてきた。
ところが1986年6月25日、好子氏が突如、記者会見を開く。井上氏との離婚発表だった。さらに冒頭のような姿で「非は全て私にあります」と語ったことで、集まった報道陣が騒然となるひと幕が。
好子氏が25年という月日をかけて築き上げてきた「今」を全て投げ出し、飛び込んだ相手が8歳下の舞台監督、西舘督夫氏(現在の夫)だったのだ。西舘氏は「こまつ座」結成からスタッフとして参加。つまり2人は座長とスタッフという関係で、それがいつしか男女の仲へと発展したというわけだ。好子氏は会見で複雑な思いを吐露。
「私が捨てたものはすごく大きいけれども、多分それを拾う人にとっては、身勝手な言い草ですが、それで堪忍してほしい。全部捨てるから堪忍してくださいと、それしか言えなかったので、こういう方法しか取れなかったんです」
片や井上氏は翌日に記者会見を開いたものの、詳しい事情については口を閉ざした。
「離婚の理由は芝居(上演された「泣き虫なまいき石川啄木」)に全て書いたつもり。物書きはしゃべるのが下手。武士の情けです。芝居からくみ取ってください」
そう語って報道陣に頭を下げたのである。
この不倫劇、当時の報道が好子氏批判一色に染まったことは言うまでもないが、そんな離婚劇から12年を経た1998年11月、好子氏が突然にして、井上氏との生活を赤裸々に綴った著書「修羅の棲む家」を出版する。
そこには〈肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…〉等々、井上氏から受けたとされる壮絶なDVの事実が赤裸々に綴られていた。ただ、井上氏は亡くなるその日まで、その問題を口にすることはなかった。
そして騒動から20年後の2018年2月、好子氏は再び井上氏との愛憎劇を綴った「家族戦争 うちよりひどい家はない!?」を出版。泥沼離婚後も二十数年間にわたり、真夜中に電話をしていたとして、こう綴られていた。
〈今振り返れば、あの二十数年という歳月は、お互いの憎悪を浄化するために必要な時間だったのかもしれない〉
よく愛情と憎悪は表裏一体だと言われるが、まさに事実は小説より奇なり。そこには2人にしかわからない「愛と憎の形」があったのかもしれない。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。