1999年5月2日の東京ドームにおける「ジャイアント馬場引退記念興行」の翌日から、全日本プロレスは三沢光晴を代表取締役社長とする新体制になった。
オーナーの馬場元子夫人は「馬場さんとゆっくり2人で全日本を見ていられるような会社にしてほしいと思います」と、5月22日開幕の「スーパーパワー・シリーズ」から三沢新体制にすべてを委ね、会場に顔を見せることもなかったが、三沢と元子夫人の関係は決して良好ではなかった。
三沢が社長に就任するや、馬場が使っていた社長用の机、馬場や全日本所縁の記念トロフィーを元子夫人がすべて引き取ったために社長室はもぬけの殻となってしまい、三沢は友人にプレゼントされた机と応接セットだけの簡素な社長室で慣れない社長業をこなしていたのである。
元子夫人は三沢を快く思っていなかった。負の感情が芽生えたのは前年夏の三沢革命の時だ。三沢は馬場に「自分にやらせてください」と直訴して現場の全権を譲り受けたが、元子夫人がマッチメーク等の現場に介入しないことも三沢からの要望だった。馬場は腹心の和田京平レフェリーに「俺はかあちゃん(元子夫人)に何と説明すればいいんや?」と言ったという。
それから半年もしないうちに馬場が急逝。元子夫人の心の奥底に「三沢君の行動が馬場さんの死期を早めた」という思いがあったのは想像に難くない。
元子夫人がオーナーとして三沢体制に口を出すきっかけとなったのは、7月11日の後楽園ホールにおける川田利明VS高山善廣。川田の強烈なキックで場外に転落した高山が、そのまま立てずにリングアウト負けを喫した一戦だ。馬場・全日本ではピンフォールかギブアップの完全決着が絶対条件。リングアウト決着はあってはならなかった。
この後楽園に元子夫人は来ていなかったが、夢に初めて出てきた馬場が不機嫌だったため、気になって和田に電話をかけて何かあったのかを確認して事の次第を知り、現場に口を出すようになった。
三沢は「今まで馬場さんが築き上げてきた全日本らしさを大事にしながら、いいものは取り入れて、今までと違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と、9月4日には日本武道館においてファン投票で試合順を決める5大シングルマッチを敢行。投票の結果、1位=秋山準VS大森隆男、2位=川田利明VSベイダー(川田の両眼ブローアウト骨折による欠場のため、代打で三沢が出場)、3位=小橋健太(現・建太)VSザ・グラジエーター、4位=三沢VS高山、5位=田上明VS馳浩となり、ビッグマッチのメインを若い秋山と大森が務めるというフレッシュな大会になり、1万6300人の大観衆を集めて大成功となったが、元子夫人は「日本武道館のメインは三冠ヘビー級選手権であるべき」と猛反対だった。
元子夫人の基準は「馬場さんが嫌がることはダメ」というもので、三沢は天龍源一郎、冬木弘道を上げたいとも考えていたが、実現することはできなかった。
三沢と元子夫人の亀裂が決定的になったのは2000年1月31日、後楽園ホールでの「ジャイアント馬場一周忌献花の儀」と言われている。最後に三沢が参列者に挨拶をしたが、三沢はその場で元子さんに振られて困惑したという。
「馬場さんが亡くなり、1年が経ちましたが、馬場さんが遺してくれたプロレスというものをレスラー、社員、スタッフ一同、守っていきたいと思います」と挨拶した三沢は、実は「何があっても一周忌までは‥‥」という気持ちだった。
そして、この一周忌が終わった後からプロレス・マスコミの間では三沢の全日本退団、あるいは三沢の独立と新団体設立が囁かれるようになった。
三沢自身、吹っ切れたように知人の結婚披露宴で天龍と飲んだことをラジオなどで公言するようになったし、当時は日本スポーツ出版社の企画室長として増刊号を手掛けていた筆者は、企画している本での三沢×天龍の禁断の対談を三沢に相談したところ「いつやりたいの? ウーン、もうちょっと‥‥夏過ぎぐらいまで待ってくれたら、やれるかもねぇ(ニタリ)」と含みのある言葉が返ってきたことを記憶している。
表面上は特にトラブルはなかった。1月17日の大阪府立体育会館で川田が147日ぶりにカムバック。2月27日の日本武道館大会では、小橋がベイダーを撃破して三冠王座3度目の戴冠。さらに小橋は春の祭典「チャンピオン・カーニバル」初優勝も果たした。
なお、この年の春の祭典はリーグ戦ではなく、25年ぶりにトーナメント制が採用になった。これは、三沢社長が選手たちのコンディションを考慮したと思われる。
事態が急変したのは前年3月に引退したジャンボ鶴田が5月13日にフィリピンで急逝してから。6月9日の日本武道館で鶴田の追悼セレモニーが行われたが、この大会を最後に全日本プロレスは分裂した─。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。
写真・山内猛