1998年5月1日、三沢光晴VS川田利明の三冠ヘビー級戦をメインに据えた、全日本プロレスの東京ドーム初進出は5万8300人の大観衆を動員。全日本が築き上げてきた「はずれはない」というファンの信頼が生んだ成功だった。
だが、その代償も大きかった。
90年春の天龍源一郎離脱、92年冬からのジャンボ鶴田の第一線からの撤退という激動の中で、若きエースとして全日本を支え、全日本独自の四天王プロレスを牽引してきた三沢は満身創痍だった。東京ドームを迎えた時点で、爆弾を抱える首と腰は悲鳴を上げ、右手薬指靱帯断裂、左膝蓋骨を骨折していた。それでもエースの責任として三冠戦のリングに上がり、川田のパワーボムに力尽きた。
社長のジャイアント馬場は「あいつは自分から休ませてくれと言わんのだよ。ここは俺が休ませてやらなかったらダメだと思う」と5月7日に三沢の欠場を発表。8月22日の後楽園ホールにおける「サマー・アクション・シリーズⅡ」開幕戦まで3カ月半休ませた。
この間も全日本マットは動いていた。5.1東京ドームで三沢を撃破して三冠王者になり「プロレス人生で一番幸せです」と言った川田だが、6月12日の日本武道館でその川田を撃破して三冠王者になった小橋健太(現・建太)は「これからが始まりだと思っています!」と新時代宣言。7月24日の日本武道館では小橋が、四天王より下の世代の秋山準の挑戦を退けて全日本新時代を印象付けた。
治療に専念していた三沢は、復帰直前の8月14日、東京・銀座の富士フォトサロンでのプロレス写真記者クラブ主催「第2回写真展」のオープニング・パーティーで新日本プロレスの蝶野正洋と握手。この時、2人は密かに連絡先を交換、それがのちに三沢と蝶野&武藤敬司の交流につながる。
そして8月22日の三沢復帰に連動するように、全日本マットで様々なことが起こる。まず小橋とGETなるユニットを結成していたジョニー・エースが、仲間割れのアクションを仕掛けてウルフ・ホークフィールド&ジョニー・スミスと小橋を襲撃して、ムーブメントなる新ユニットを結成。それまでの全日本ではタブーとされていたアクションだ。
エースらに袋叩きにされた小橋を救出した秋山は、三沢とのコンビを解消して小橋との合体をアピール。若手の志賀賢太郎も「小橋さんに付いていきたい」と自己主張して、新ユニットのバーニングが誕生した。
メンバーを替えながらも90年夏から続いてきた、三沢率いる超世代軍は消滅。
1人になった三沢は世界ジュニア・ヘビー級の小川良成を新パートナーに抜擢した。体が小さいために格としては中堅クラスに甘んじていた小川だが、三沢は格付けに関係なく、その卓越した技術とキャリア13年の経験を買ったのだ。
小川をパートナーにした三沢のもとには元UWFインターナショナルの垣原賢人、付き人の丸藤正道が合流。三沢は新ユニットをアンタッチャブルと名付けた。そこには「たとえ見えざる力であっても、誰にも手出しはさせない」という決意が込められていた。
三沢復帰と同時に選手たちが自己主張を始め、全日本マットが目まぐるしく動き出したのは、三沢が現場の全権を掌握したからだ。
欠場中、多くの選手や社員から会社に対する不平不満を聞かされ、相談された三沢は会社の改革に乗り出し、まずマッチメークなど現場の改革に着手。
変化を好まないのが全日本の体質であり、それまでは1話完結で、ストーリー性がなかったが、三沢は選手たちに「何でも人任せにしないで、思ったことは主張するべき。ただし自分の言動、行動には責任を持たなければならない」と、意識改革を促したのである。
その結果が一連の選手たちの新たなアクションであり、プロレス・マスコミは「自由と責任」を重んじる三沢の思想を「三沢革命」と呼んだ。
こうした新たなリング上のうねりを馬場も「俺が指図することは何もない。こうした流れの中で、発表したカードも変わっていくだろうし、選手たちが思ったようにやればいい。ただし、自分の行動には責任を持ってもらわなければならん」と容認。馬場は三沢の「自分に任せてください」という申し出に現場の全権を委ねたのである。
ただ、その一方で馬場には寂しさもあった。側近の和田京平レフェリーは「三沢が社長室で〝自分にやらせてください〟ってハッキリ言ったんだよね。今、憶えているのは三沢との話が終わった後に俺の車に乗り込んで、自分の好きなゴルフ屋に行ったんだけど、その時の馬場さんの寂しそうな顔ね。〝もう、俺はいいか。全日本プロレスの看板は俺で終わらすわ。みんなくれてやるから、三沢は三沢プロレスをやればいい。自分らの好きなプロレスをやればいい。俺は止めやせんよ〟って」と述懐する。
無血革命だが、三沢の行動は禍根を残すことに─。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。
写真・山内猛