「文藝春秋と政権構想」鈴木洋嗣/1760円・講談社
安倍元総理の経済政策「アベノミクス」の策定にひそかに関わった、「文藝春秋」の元名物編集長・鈴木洋嗣氏が、政治経済裏面史「文藝春秋と政権構想」を上梓した。政権構想や経済政策を巡り鈴木氏は何を提言してきたのか。ジャーナリストの名越健郎氏が真相に迫る。
名越 この本は、92年の日本新党結党宣言や第二次安倍内閣によるアベノミクスなど、鈴木さんが、関与してきた政権構想の内幕が描かれています。経済政策の裏面史であり、ある種の暴露本でもありますね。
鈴木 いや、暴露本という意識はありません。ただ、この40年、雑誌の世界は大きく変わりました。スキャンダル報道の増加や、それをSNSで拡散する記事の氾濫。ニーズもあるので否定はしませんが、それだけが雑誌ではない。自分たちがやってきたことの一端を記録しておきたいと思ったのが執筆の動機です。
名越 新聞社の政治部記者の中には「あの政治家の公約は俺が書いた」と自慢する人もいますが、鈴木さんが関与してきたのは「政権構想」。彼らとはレベルが違います。
鈴木 私が15年ほどいた月刊「文藝春秋」では、新たな政権が誕生すると手記などで必ず政治家に登場いただくという伝統があり、原稿作成のトレーニングも受けました。
名越 「政権構想づくり」に関わったのはいつ頃ですか。
鈴木 92年、田中角栄派支持に待ったをかけた細川護熙さんが「文藝春秋」で「新党結党宣言」を仕掛けた時です。すでに事前にきちんとした論文ができていて、そこに党名を入れてくださいとお願いした程度でした。ところが記事が世に出ると、すごい反響で新党ブームが起きた。雑誌が政局を動かすこともできるのか、と驚きましたね。それ以降、積極的に関わるようになりました。
名越 梶山静六さんとの関係も取り上げられています。
鈴木 梶山さんは、田中(角栄)派に属していて、角さんの多くの才能を受け継いでいるのではないかと感じました。度胸も胆力もあり、ケンカもできる。資金力もある親分肌でした。
名越 梶山さんと積極的に関わったのはいつですか。
鈴木 名越さんもご存知のとおり、雑誌の記者は政治家にまともに相手にされません。97年、親しくなるために「なぜ、金融ルネサンスが必要なのか」という経済レポートを手土産として、議員会館に週一で通っていました。バブル崩壊後の不良債権を放置していると、銀行や証券会社が破綻するという内容です。そうした危機感を持つ政治家はいませんでしたが、梶山さんは興味を示してくれました。その後、本当に金融機関が危機的状態になったことで、信頼してもらえるようになりました。
名越 梶山さんからは、98年の「自民党総裁選」で首相になったら補佐官に、と請われたとか。
鈴木 そんなつもりはまったくなかったので驚きましたが、会社を辞めることも覚悟しました。この総裁選は小渕恵三さん、梶山さん、小泉純一郎さんが争った、いわゆる〝凡人・軍人・変人〟の闘いでした。当初は小渕さんと梶山さんの対決と思われていましたが、小泉さんが参戦したことで状況が一転。小渕さんが勝利したことで私の首は繫がりました。
名越 小渕さんはバブル崩壊後、大量の国債を発行して財政出動を行った。しかし、結果も出せないまま急逝。しかも、今も続く財政不安のきっかけになったことを考えると、あの総裁選の意味は大きいですね。
鈴木 小渕さんがいくら国債を発行しているか調べたら、歴代総理の中で最高でした。そこで「日本一の借金王」という記事を作ったら、本人は「いや、世界一の借金王」と言っていたらしい。のん気なものですが「失われた30年」になったのは、初動を誤ったと言わざるをえません。
ゲスト:鈴木洋嗣(すずき・ようじ)1960年、東京都生まれ。84年、慶應義塾大学を卒業、株式会社文藝春秋入社。「オール讀物」「週刊文春」「諸君! 」「文藝春秋」各編集部を経て、04年から「週刊文春」編集長、09年から「文藝春秋」編集長を歴任。その後、執行役員、取締役を務め、24年6月に同社を退職し、シンクタンクを設立。
聞き手:名越健郎(なごし・けんろう 拓殖大学特任教授。1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社。モスクワ支局長、ワシントン支局長、外信部長などを経て退職。拓殖大学海外事情研究所教授を経て現職。ロシアに精通し、ロシア政治ウオッチャーとして活躍する。著書に「独裁者プーチン」(文春新書)など。