1994年3月、あの「ドーハの悲劇」で初のW杯出場を逃したサッカー日本代表は、ハンス・オフト監督の後任に元ブラジル代表のパウロ・ロベルト・ファルカン氏を選出した。現役時代は「ローマの鷹」「皇帝」と呼ばれ、ブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともに「黄金のカルテット」を形成。ネームバリューとしては申し分ないが、一方で指導者としての能力は未知数だった。
さて、5月に「キリンカップサッカー94」に向け、代表選候補選手の会見が行われた。これはかなりのインパクトがあった。井原正巳、柱谷哲二、森保一、三浦和良らドーハ組の名前はあったものの、全国的には無名の選手の名前が次々と呼ばれ「え、誰?」と記者席から失笑が漏れるほどだった。
公開練習で取材すると、ある選手は「選ばれてびっくりした」。とはいえ、ファルカン監督がどんなサッカーを目指しているのかはわからなかった。基本的な戦術はあるものの、細かい指示はなく、攻撃は自主性に任せるというものだ。
一方で食事面や体調面などは、とにかく徹底管理した。選手たちからは、反発の声が出た。以前の代表選手は空き時間にコンビニに行き、お菓子や軽食などを購入して食べていたが、こうした行動は禁止された。今では当たり前だが、当時の代表選手はなかなく受け入れられなかったようだ。選手の「食事・体調管理」という概念を導入したのは、ファルカンの功績だったと思う。
ところでファルカン監督は、就任後わずか7カ月で解任された。これについては、今でも疑問視する声は強い。特に面白いサッカーを見せてくれたわけではないが、惨敗したフランス戦以外は特段、悪い結果ではなかった。ファルカン監督は前園真聖や城彰二、岩本輝雄など若手を育てようという段階だったことを考慮すれば、いい結果が出るまでは時間がかかるのは当然である。
だが、どうやら協会内に「ファルカン降ろし」を狙う勢力が存在したようだ。さらに言えば、ファルカンを降ろして加茂周氏を就任させたい…と考えている勢力がいるとも噂された。
ファルカン体制の代表デビューは、キリン杯オーストラリア戦。1-1で引き分けだった。さらに超格上のフランスとの試合は、1-4と惨敗。その後、ガーナとのテストマッチで連勝したものの、ファルカン監督の指導法を批判する報道が出始めると、協会側は10月のアジア大会(広島)では「最低でもベスト4」という、代表監督継続のための条件が突きつけられた。しかし、本格的にスタートしてまだ5カ月で、こうした条件が出るのは不可解だった。
結局、アジア大会は準々決勝で韓国に逆転負けし、ファルカン監督は解任された。解任会見では、後任も発表された。9戦して3勝4分2敗という戦績だった。
会場にはファルカンの姿があった。彼は会見には出席はしなかったが、筆者を見かけると「後任は決まったのか」と質問してきた。加茂周氏の名前を挙げると、ちょっと驚いた表情を見せて「そうか。幸運を祈る」とだけ言って立ち去った。
本人とすれば、全く納得できなかったことだろう。何もしないうちに解任された、という思いではないか。
もっと大きな舞台で、ファルカン監督はどんなサッカーを見せてくれていたのか。あまりにも早い、不可解な解任は、残念でならなかった。
(升田幸一)