61年に入社した日枝氏は、フジの創業者・鹿内信隆氏の長男・春雄氏が80年に副社長に就任すると、編成局長に抜擢された。「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチコピーに掲げ、〝軽(カル)チャー路線〟に転向。まだ日本テレビとTBSの後塵を拝していた時代で、若者にターゲットを絞った。
それがドンピシャでハマり、82年から93年まで12年連続で年間視聴率三冠王を獲得。翌94年から10年間、日テレに首位を奪われたが、04年に返り咲き、7年間三冠王に君臨する。
その間に日枝氏は出世街道をばく進。83年取締役編成局長、86年常務取締役、88年に春雄氏が42歳の若さで急逝すると、代表取締役社長に就任。92年には、信隆氏の娘婿で養子の宏明氏をクーデターで追放し、01年に代表取締役会長の座に就いた。
長らくドンとして実権を握り、作り上げた日枝帝国について、フジ社員が明かす。
「相談役になっても日枝さんがトップで仕切るのは変わりません。歴代の社長は日枝さんの意向で決められてきたし、旧本社ビルの河田町からお台場に移転した際は、発注した建設会社に自宅も建ててもらったと噂されるほどの独裁者。あまり人を見抜く力がないのか、足をすくわれないよう警戒しているのかわかりませんが、ヒット番組は作れても、経営能力のない人間ばかりが重用されてきました」
子会社の共同テレビに出向したら、そこでキャリアは終わりという不文律を破り、港氏を社長に指名したのも〝天皇〟だった。
「日枝さんの傘の下に入ればやりたい放題できる。港社長はゴルフでも何でも、会社の経費は自分の財布代わり。14年には『週刊文春』に銀座の高級クラブで働いていた30歳年下の女性との不倫旅行が報じられましたが、銀座の領収書がよく経理に提出されたのは有名な話」(フジ社員)
局内では絶大な権勢を誇る日枝氏だったが、視聴率や業績はずるずると下がり、低迷の一途をたどるようになる。
視聴者離れには、番組の作り方も影響していた。芸能ジャーナリストの城下尊之氏はこう指摘する。
「かつてのテレビ黄金期に比べて、予算が限られているのは各局とも変わりません。その分、低予算で面白い企画で勝負するようになったのですが、例えば、フジが得意とするバラエティーを見ても、他局はアイデアで勝負。一方、フジは売れている芸人など、名前のあるキャスティングに頼りっぱなし。台本もあってないようなもので、フリートークなどタレントに丸投げする内容が多く、総じて楽に番組を作っているのが視聴者に見透かされてしまった」
22年に港社長が就任すると、かつて女子大生ブームを牽引した「オールナイトフジ」を32年ぶりにリニューアルし、「オールナイトフジコ」を復活させた。
ドラマでも、バブル期にヒットしたトレンディ路線を想起させる「真夏のシンデレラ」(23年)を放送した。しかし、24年1月クールでは、テレビ東京に視聴率で抜かれて、最下位に転落する屈辱を味わっている。
「日枝氏はかつての栄光を忘れられない人。昔は数字が取れたんだから、今でも取れるはずだと。その顔色をうかがって、港社長も黄金時代に回帰した番組作りばかりに力を入れてしまう。フジが復活するには、日枝氏が退陣して局のイメージを全部変えないかぎり、問題は解決しないでしょう」(大谷氏)
とはいえ、フジの抱える末期的症状はこれだけではなかった。