辻内氏と同じ大阪桐蔭で活躍した荻原誠氏(42)は91年、高校3年で迎えた夏の甲子園で活躍。同校の初出場、初優勝という快挙を成し遂げた4番打者だった。
その年のドラフト会議で阪神が1位指名。背番号はあのミスタータイガース・掛布雅之氏(60)と同じ31番だった。
ルーキーイヤーの終盤で出場機会が与えられ、20打席に立って2割9分4厘。だが、その後は低迷し、5年間在籍した阪神では通算4本塁打、打率は2割に満たなかった。トレードで近鉄に移ったのも、プレッシャーから解放されれば打てるのではないか、と思われたからだ。代打で主に起用されながらも、トレードから3年後、戦力外となった。
「引退後に本人の名前で、大阪に整骨院を開業しています」(スポーツ紙デスク)
同整骨院に連絡を取ったところ、スタッフからは思わぬ回答が返ってきた。
「今年の3月末に辞めました。その後のことはわかりません」
屋号は荻原氏の名前を使用している。そのあたりを訪ねると、「オーナーは別にいるんです。名前は借りているだけ」と言う。
現在は、どうやら少年野球のレッスンDVDに出演し、生計を立てているようだ。
83年の甲子園でKKコンビのPL学園と対戦。9対10の僅差で敗れた高知商の中山裕章氏(47)は、エースとして出場した翌年の夏も、準々決勝で再びKKコンビが立ちはだかった。
「3対6で負けましたが、スカウトの評価は高かった。プロで鍛えれば成長するとの判断で、大洋(現・DeNA)がドラフト1位指名したんです」(スポーツライター)
開幕投手を経験するなど首脳陣からの信頼も厚かったが、ある「事件」をきっかけに、暗転する。
「91年12月、幼児の下着を脱がせてわいせつ行為をしたとして、神奈川県警に逮捕された。現役のプロ野球選手では前代未聞の事件で、大洋から解雇。示談が成立しましたが、汚名は最後まで拭えませんでした」(スポーツ紙デスク)
93年に、中日の球団職員として契約。翌年に支配下選手として登録され、論議を呼んだ。前出・スポーツライターが明かす。
「練習中にコーチが、わざと『ロリコン』『変態』などと声をかけ、登板した際に観客にヤジられる訓練までしていた。それに耐えられなければプロ選手としては無理だ、と。そうした覚悟の下で復活しました」
オールスターにも選出され、中日では中継ぎから抑えまで不平を漏らさずに何でも応じていた。01年に退団後、台湾野球にも2年間在籍している。
「現在は貿易商として世界各地で仕事をしているという噂も聞くが、はっきりとした消息はわからない」(球界OB)