「チョー気持ちいい」──04年のアテネ五輪で金メダルを獲得した北島康介は、こう叫んで新世代スイマーの誕生を印象づけた。だがその裏では、4年前のシドニーでの惜敗からのリベンジに向けて周到な準備があったのだ。「29歳の原点」となったアテネまでの足跡を追った──。
シドニー五輪でなめた“苦汁”
北島康介が5歳の時から通っていた東京都豊島区の東京スイミングセンター。中学2年生だった北島に、声をかけたのが当時、東スイのコーチを務めていた平井伯昌だった。「康介、オリンピックへ行きたいか?」と声をかけた時が、“スイマー・北島”の競技人生の第一歩だった。
「まずは技術ではなく、康介の強気なところや集中力の強さから伸ばそう」
と平井が考えて始まった五輪への道。それはまさに一直線だった。
「満足させてはいけない。最初に出させる新記録は日本記録だ」と、あえて中学記録や高校記録を出させないために試合当日の朝でもきつい練習をさせてから大会に出させた、平井の厳しい指導。そして、「後半がどうなるかは気にしなくていいから、前半から思い切り行け」という指示にも、「後半を気にしなくていいならできます」と平然と答えて強気な泳ぎをする北島の心根。2人の呼吸はピタリと合った。
そして、最初の成果は、高2の00年1月、ピープル優秀選手招待記録会で結実した。200メートル平泳ぎで、目論見どおりの短水路日本記録樹立だった。そして4月18日からの日本選手権100メートルでは、北島が五輪を意識するキッカケになった憧れの選手・林亨を破り、1分01秒41の日本記録で五輪代表の座を勝ち取ったのだ。
初めての日本代表がシドニー五輪の大舞台。それでも北島はノビノビと泳いだ。日本チームで注目されていたのは、前回のアトランタ五輪で悔しい思いをした女子選手たち。複数のメダル候補が、チームの雰囲気もいい方向に導いた。北島には何のプレッシャーもかからずに済んだ。
競技初日の100メートル準決勝では、1分01秒31の日本記録を出した。全体の4位という記録での決勝進出に、メダルへの期待もあった。だが翌日の決勝は1分01秒34とタイムを落として4位にとどまった。優勝したフィオラバンティ(イタリア)には0秒88差で、3位の世界記録保持者スロードノフ(ロシア)には0秒43差。世界との距離も感じた。
それでも北島が思ったのは、憧れの五輪で決勝を泳げた楽しさだけだった。4日後の200メートルも0秒01差で準決勝進出を逃す予選落ちだったが、悔しさは感じなかった。
だが帰国すると4位だった悔しさが、心の中にジワッと湧いてきた。成田空港で集合したあとにメダリストは集められてテレビ局へ向かったが、他の選手は「解散です」と言われただけだったからだ。その扱いの差が悔しかった。
それは平井も同じだった。冷静に考えてみればメダルを獲らせることも可能だった。
だが、そのための準備は不十分だったと反省した。平井は北島に「ごめんな。俺の見通しが甘かった」と謝り、「次は絶対に金メダルを狙おう」と言った。