ライバルの存在に奮い立った
10年4月の日本選手権では7歳年下の立石に敗れ、50メートルと100メートルは2位。200メートルは4位という結果だった。だが8月にアメリカのアーバインで開催されたパンパシフィック選手権では、100メートル予選で同年世界ランキング1位になる59秒04を出し、決勝は59秒35で優勝。50メートルこそ5位にとどまったが、200メートルでも世界ランキング1位の2分08秒36で優勝と、衝撃的な国際大会復帰を果たした。
だが11月のアジア大会は50メートル、100メートルとも4位になり、肩の痛みが出たために200メートルは棄権。翌11年の国際大会選考会では100メートル1位、200メートル2位で世界選手権代表になったが、200メートルのスタート直後に太腿の付け根を肉離れするアクシデントに見舞われた。
その影響で急仕上げの状態で臨まざるをえなかった7月の世界選手権は、100メートルで急成長したダーレオーエンの前半50メートル27秒20という驚異的な泳ぎにリズムを崩され、1分00秒03の平凡な記録で4位と惨敗した。
それでも中2日で出場した200メートルは泳ぎを修正し、かつてのような伸びのある泳ぎで150メートルまでを世界記録を上回るペースで通過。最後は大会前の追い込み不足が響いてダニエル・ギュルタ(ハンガリー)に逆転負けしたが、2分08秒63で0秒22差の2位と、底力の確かさを見せつけたのだ。
だが100メートルの惨敗は、北島にとって大きなショックだった。
「本来持っている力すら出させてくれなかったんだから、それは悔しいよね。技術で負けたとは認めたくないけど、やっぱり彼は力もあるし、北京五輪で2位になった時とは技術面も比べ物にならないくらい上達している。まったく別のところで勝負しているような感じで、たぶん僕すら相手にしていないだろうしね。今は彼の相手は誰もいないと思うし、独壇場じゃないかな」
あきれ顔でこう話していた北島は、100メートルが終わったあとはホテルへ帰ると自分の部屋でひとり涙を流したという。そして北京まで彼を育ててくれた平井伯昌コーチにも「どうすればいいのかわからない」と弱音を吐くほどだった。