「チョー気持ちいい」の真意
03年世界選手権までは、全てがシナリオどおりに進んだ。だがアテネへ向けたトレーニングを始めると誤算が続出し始めた。12月のフラッグスタッフ合宿で膝に痛みが出た。さらには04年1月のワールドカップ遠征では、肘までが痛みだしたのだ。
その影響もあり、代表選考会だった4月の日本選手権では泳ぎを崩していた。五輪代表にはなったが、100メートルは1分00秒39で200メートルは2分10秒70。前年の世界選手権で見せた勢いはなかった。
5月にグラナダ合宿へ行ってからはさらに泳ぎが崩れ、深刻な事態になった。合宿の仕上げとして出場したヨーロッパグランプリは、第1戦のスペイン大会こそ100メートルで勝ったが、第2戦のローマ大会では焦った泳ぎになってしまい100メートル、200メートルとも敗れたのだ。
帰国するとそれに追い打ちをかけることが起きた。五輪開幕まで2カ月を切った6月中旬に左膝にできた腫瘍を潰すと、痛みが出てしまって平泳ぎを泳げない状態になったのだ。
6月30日には予定どおりにグラナダ合宿へ出発した。だが合宿ではなかなか体調が上がらない。そんな時にアメリカのハンセンが、100メートル59秒30、200メートル2分09秒04の世界記録を出したというニュースが届いた。ライバルにプレッシャーを与えて優位に戦おうとした構想が、足元からガラガラ崩れたのだ。
それでも北島は、ハンセンの世界記録を刺激にして、五輪開幕30日を切ってから少しずつ状態を上げた。そして大会直前には、
「59秒台後半の勝負に持ち込めば戦える」というところまでに戻したのだ。
勝負をかけたアテネ五輪。北島は最初の100メートルで戦略的な戦いをした。ハンセンにプレッシャーをかけようと、最初の予選をいきなり1分00秒03の好タイムで泳いだのだ。
それがボディブローのようにハンセンの心をジワジワと蝕む。決勝ではハンセンの武器である前半のスピードを鈍らせて1分0秒台の勝負に持ち込み、1分00秒08で優勝したのだ。
テレビカメラの前で「チョー気持ちいい」と明るく叫んだ北島だが、観客席裏にあるミックスゾーンでは、記者を前にボロボロ涙を流した。「ひと言でも弱音を吐いたら、そこで負けてしまうのが五輪という大会」と思い、必死に弱音を吐かずにいた時の苦しさを思い出していたからだ。
次の200メートルでは、戦意を喪失したハンセンはもう敵ではなかった。2位のギュルタ(ハンガリー)に1秒以上の差をつける2分09秒44で圧勝した。
歴史に残る平泳ぎ2冠。それは北島の勝負師としての強さの証しだった。