アテネでピークを迎えるために
04年アテネ五輪での金メダル獲得。それを実現するためにと平井はスケジュールを立てた。福岡で開催される01年世界選手権でメダルを獲得し、02年には世界記録を出させる。そして03年世界選手権で頂点に立ち、優位な立場で五輪を迎えようと──。
平井は北島の選手としてのピークを00年シドニー五輪ではなく、21歳で迎える04年アテネ五輪だと考えていた。だからこそ小さくまとまった泳ぎにしたくないと、細かい技術の追求は後回しにしていたのだ。
ウエイトトレーニングで体を作り、練習量を増やして泳ぎの改良をして磨いていけば、さらに力を伸ばせるという自信はあった。
その第一弾となったのが、01年7月の世界選手権だった。狙ったのは100メートルだった。予選で1分00秒95の日本記録をマークした北島は、準決勝では1分00秒61にまで記録を伸ばした。トップ通過は59秒94の世界新で泳いだスロードノフだが、北島の記録は全体の3番目。メダルへ王手をかけた。だが決勝ではタイムを落とし、またしても4位だった。
準決勝と同じ記録なら銅メダルに届いていた。アメリカのコーチから「3レースの全てを1分00秒台で泳いだのは優勝したスロードノフと北島だけ。よかったじゃないか」と声をかけられたが、うれしくも何ともなかった。
「1年前よりタイムは上がっていても、肝心なところで結果を出せないのは、何も変わってないことじゃないか」
と思い、北島はへこんだ。
平井もショックだったが諦めなかった。大会前の練習では大きな泳ぎを身につけさせるため、北島に200メートルをベースにした練習をさせていた。本人は100メートルが得意だと思っているかもしれないが、200メートルのほうがチャンスが大きいのではないかと考えた。
「200メートルは絶対にメダルを獲ろう!」
と北島にハッパをかけて臨んだ200メートル。準決勝では自己記録を大幅に更新し、2番目のタイムで決勝へ進んだ。そして決勝で北島は、「ストローク数を少なくして、大きく伸びる泳ぎをしろ」という平井の指示を忠実に守り、2分11秒21の日本記録で3位になった。
「どうしても欲しいメダルだった。シドニーからずっと胸につっかえていた感情が、このメダルで溶けた気がする」
と北島は喜んだ。
そして、さらにパワーアップした02年には、肩と肘を痛めて8月のパンパシフィック選手権は100メートルで圧勝したあとの200メートルは棄権したが、10月のアジア大会200メートルでは、92年以来10年間破られていなかったバローマン(アメリカ)の記録を0秒19更新。世界で初めて2分10秒の壁を突破する2分09秒97の世界記録を樹立したのだ。