トップとの競り合いに価値あり
世界記録保持者になったとはいえ、北島の発言は慎重だった。ライバルがおらず、プレッシャーもない大会で出した記録だったからだ。
「僕が出した記録は、それまでの世界記録を0秒19だけ更新したもの。この前の世界選手権でメダルを獲った選手はもちろん、トップ選手はみんな『北島が出したんだから俺にも出せる記録だ』、と思ってるんじゃないですか」
トップ選手と競り合う中で出した記録こそが価値を持つ、という考えだった。だから世界記録で優位に立ったというより、あくまでも世界のトップと真剣勝負をできる位置まで来たという認識だったのだ。
そんな北島が平井とともに次なる目標としたのは、03年7月にバルセロナで行われる世界選手権だった。そこで金メダル獲得と再度の世界記録樹立を果たし、ライバルたちにプレッシャーを与えられる存在になることだった。
冬の間はタフさを身につけようと、初めて連戦となる短水路ワールドカップにも出場した。そして03年4月の日本選手権では、100メートルを意識した。100メートルは最初に日本のトップに躍り出た種目で、自分も好きな種目だった。200メートルの選手だと思われることなく100メートルも得意だと公言するには、記録で証明するしかないと思ったのだ。
そのためにトライしたのが、前半の50メートルを27秒台で入ることだった。それができれば世界記録保持者のスロードノフと並ぶ59秒台へ入れる、と。その入りこそできなかったが、準決勝では世界歴代2位の1分00秒07を出して、次への手応えをつかむことができた。
世界選手権に際しては、翌年のアテネ五輪に向けてのシミュレーションも兼ねていた。大会前の高地合宿はいつものアメリカ・フラッグスタッフではなくスペインのグラナダで行った。 その合宿中、北島が“予言”していた事態が起きた。ロシアのコモルニコフがバルセロナで行われた国際大会の200メートルで、北島の記録を0秒45更新する2分09秒52を出したのだ。
だが北島はそれを、自分のモチベーションを高めるいいキッカケにした。そして世界選手権前の日本チームの全員が集まった合宿では、「100メートルは1分を切って優勝。200メートルは2分08秒台の日本記録で優勝します」と全員の前で宣言したのだ。
そして迎えた世界選手権。北島は最初の100メートルは前半を抑えて後半で勝負するスタイルにして、59秒78の世界記録を樹立して念願の優勝を果たした。さらに200メートルでは、コモルニコフと対決した準決勝を2分09秒73の日本記録で圧勝。自信を持って臨んだ決勝は、100メートル以降を悠々と独泳する圧巻の泳ぎを見せ、2分09秒42で世界記録を取り戻したのだ。