酪農家の今警戒区域内
「家畜の殺処分」は証拠隠滅だ!
「被曝の実態研究のために生かす道もある」
肥育農家として300頭以上の牛の世話を続けながら、福島第一原発の半径20キロの警戒区域内、浪江町に住む(有)エム牧場「浪江農場」農場長の吉沢正巳さん(58)。無人地帯となった浪江町にあえて踏みとどまる理由を聞いた。
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「私たちの浪江町はチェルノブイリになってしまったんです!」
若者が行き交う渋谷のハチ公前。そこで月1回、大声を張り上げて街宣活動を行う吉沢さん。浪江農場は福島第一原発から約14キロ。今年3月に警戒区域指定が解除された南相馬市小高区と、いまだ警戒区域の浪江町との境界に位置し、牧場入り口は南相馬市、牧場内にある自宅は浪江町だ。
敷地内を歩くと、毎時5マイクロシーベル に設定した線量計の警報音が時々ピピッと鳴る。だが、吉沢さんは「それでも下がったほうだよ」と笑う。
大震災発生翌日の3月12日午後、福島第一原発1号機の水素爆発時も吉沢さんは牧場にとどまっていた。「『ボーン』と打ち上げ花火のような音が聞こえて、慌てて自宅の2階から双眼鏡で原発のほうを見ると白煙が見えた。来るべきものが来てしまったと思った」
実は同日朝から、牧場の一角には福島県警の車両が滞在していた。原発の模様を県警ヘリから衛星を介して本部に中継する基地として使わせてほしいと頼まれたからだ。しかし、爆発から1時間後、警官たちは「県警本部から撤収命令が出た。あなたも避難したほうがいい。国は情報を隠している」と言って立ち去った。
牛の世話があるからと当初は残り続けた吉沢さんだったが、最終的には内陸の二本松市への避難を余儀なくされた。
「通常でも牛は月1〜2頭は死んでしまうが、事故後は十分に管理できないから、1年間で80頭以上が死んでしまった」
実際、牧場の一角には事故後に死んだ牛の白骨が散らばっていた。
もっとも、手をこまねいていたわけではない。避難後も3日に1回は牛に水と餌をやるため、牧場に通い続けた。それは住民も法的に避難を強制される「警戒区域」設定後も続いた。
ただ、警戒区域となってからは、車止めが動かせる無人検問を自力で突破していたため、巡回する警察に連行され、始末書を書かされたことも何度かあった。
しかし、その後は「公益立入許可書」を得て、さらに四方八方に手を尽くす。牛に飲ませる井戸水をくみ上げるための電気を通すことができるようになった昨年12月以降は、区域を出入りしながらも牧場内の自宅に定住を再開した。
そこまでしてこだわる理由を、ひと言で「牛ベコ屋の意地」と表する。
「国や町村は昨年5月から警戒区域内の家畜の殺処分を開始したけど、自分としては被曝して牛はもう経済価値がないから『そうですか』とは言えない。殺処分でムダ死にさせるくらいなら、被曝の実態を研究するために生かすという道もあるし、それは必要なことじゃないか。このまま全て殺処分したら、それこそ事故の証拠隠滅だよ」
手元には殺処分を求める同意書があるが、いまだサインはしていない。
被曝という意味では、吉沢さん自身もすでに経験済みだ。昨年7月、千葉市にある放射線医学総合研究所で受けた内部被曝検査では体重1キロ当たり6600ベクレルという結果が出た。通常ならば、この数値は限りなくゼロである。もっとも、検査は定期的に行っており、最新の結果は700ベクレル超まで低下した。「この結果を聞くと、放射能って何? 被曝って何?ってすら思うよ(苦笑)」
被曝をも恐れぬ吉沢さんの奮闘は今も続いている。