1年時の83年夏の選手権で優勝して以降、3度の甲子園では準優勝2回、ベスト4が1回と、あと一歩栄冠に届かなかったPL学園(大阪)の“KKコンビ”桑田真澄&清原和博。この二人は最後の夏となった85年の選手権で有終の美を飾るべく、堂々決勝戦に進出していた。
相手は宇部商(山口)。その年の春選抜で対戦し、PLが6-2で勝利したものの、終盤までは1点差の接戦を繰り広げた相手。だが、大会終盤から左腕エースの田上昌徳が調子を崩し、戦前からPLの絶対的優位が予想されていた。
だが、宇部商はその田上に代わって控えの背番号11、右腕の古谷友宏を先発に抜擢する。実はこの古谷はスライダーを効果的に使って内外角を出し入れするという、PL打線のもっとも苦手とするタイプだった。しかも、この古谷が期待以上の好投を見せ、試合は予想外の接戦となるのである。
先制したのは宇部商。2回表にこの大会、清原をしのぐ4本塁打を記録する4番の藤井進が四球で出塁すると、犠牲フライで1点。さらに6回表にも藤井の“あわや”というセンターオーバーのタイムリー三塁打と犠牲フライで2点。
対するPLも4回裏に清原が内角寄りのシュートをレフトへ運ぶ一発で同点。さらに5回裏には2本の長短打で逆転。2-3と再逆転された6回裏には再び清原が古谷の真ん中高めのストレートをセンター左のスタンドに叩き込む。個人1大会新記録となる第5号で再び同点としたのである。
試合はそのままこう着状態となり、9回裏、PL学園の攻撃。2死一塁から3番で主将の松山秀明(元・オリックス)が右中間へサヨナラタイムリーを放ち、劇的優勝を飾った。
この試合、3打席ヒットが出ていなかった松山はこの打席も簡単に2ストライクと追い込まれていた。そんな松山のことをネクストバッターズサークルにいた清原からは力みすぎているように見えたという。そこで松山の元へ歩み寄り、こう声をかけた。「気楽に行けや。ダメなら次の回に俺が打ったるから」。このひと言で松山の体からムダな力が抜けた。直後に一塁ランナーが二盗、さらにカウントもフルカウントとなり、清原の前に四球を出したくない古谷の外を狙った直球が甘く入った。それを見逃さなかった松山の勝利だった。
試合後、記者から「どうして(中盤で)清原と勝負したのか?」と聞かれた宇部商の背番号11、古谷はこう応じている。「何で最高の舞台で逃げる必要があるんですか。打たれても勝負してみたいというのが甲子園でしょ」。その顔に涙はなかった。
(高校野球評論家・上杉純也)