李教授が続ける。
「文字どおり、高官でなくては手に入らない第一級の資料ばかりでした。ただ、韓国に北朝鮮資料を持ち込むことは国家保安法に抵触するため、高官が帰国する際、資料をそのまま私に託していったんです」
李教授の著書では、独裁者・金正日の「欲望をまる出しにし、絶大な権力を手にしながらも生涯、コンプレックスと嫉妬に悩まされて生きてきた人間臭い男の姿」が描かれているが、
「正恩の世襲体制を作り上げたのは正日。彼は晩年、政治経験がほとんどない息子が代を継いでも独裁体制を揺るぎなく維持運営させていくために、それこそ心血を注いだ。そして、それをそのまま実行しているのが正恩なんです。つまり、正日という人物への理解抜きには、正恩体制の実態をつかむことはできないということです」(前出・李教授)
正日の父・金日成は「北朝鮮建国の父」だった。だが、私生活では女性関係も奔放で、妻・金正淑との間で日々、争いが絶えなかった。
「だからこそ息子たちに自分と同じ思いをさせたくなかった正日は、家庭ではいいお父さんを演じていた。それがエスカレートし、世の中で最も甘い父親になってしまったんです。その証拠に、長男の正男が11歳でスイスに留学した時も毎日電話をかけ、受話器を持ちながら、会いたくて泣きじゃくったという話があります」(前出・李教授)
正男の誕生日には「100万ドルを使いなさい」と指示したり、世界中を回って、欲しいものを買い与えたこともあったという。
「恐らくあの兄弟は正日から叱られたことはなかったし、もちろん叩かれたことなど一度もないはず。しかも『王子様』なので、周囲は言いなり。つまり、暴君になるべくしてなった、というわけです」(前出・李教授)
ところが、その甘やかし三昧の教育が、やがてアダになって返ってくる。李教授がさらに解説する。
「正男を後継者と考えていた正日は、彼が20歳になる前に大佐の軍服を着せ、組織指導部から7人を随行させて、部隊の視察に行かせたことがありました。ところが正男は、どこの施設を視察しても文句を言い、ダメ出しをする。そして二言目には『改革しないとダメだ!』と。自分の主張を絶対に曲げない正男に、この国を任せたらどうなってしまうのか。さすがに正日も考えました。なぜなら旧ソ連や中国、東ヨーロッパを見てきた正日にすれば、国を亡ぼすのは改革だという思いがあった。権力を維持するためには、“改革”など断じて許されることではない。そこで後継者として選んだのが、自分の言うとおりに動く、あまり賢くない正恩だったというわけです。正男は自己主張はあったが、国に対するそれなりのビジョンがあり、正日はそれを恐れたのです」
その後、正男は国外に「追放」され、マカオや中国で生活しているとされている。