それはまさに北朝鮮の「若き暴君」が「父の誕生日に兄の首を捧げた」かのような惨劇だった。「暗殺指令」から1885日、実行したのは謎の「LOL」毒殺女。さまざまな情報が飛び交う中、血の憎悪に隠された事件の「背景」をキャッチ。正男氏はなぜ無慈悲に殺されたのか。
「何者かに後ろからつかまれて、顔に液体をかけられた、痛い、すごく痛い‥‥」
2月13日午前9時頃、マレーシアのクアラルンプール国際空港の案内スタッフにこう助けを求めたのは、北朝鮮の故・金正日(キムジョンイル)氏の長男、金正男(キムジョンナム)氏(45)だった。
口から大量の泡や唾を垂らし、悶え苦しむ姿に驚いたスタッフは金正男氏を空港の診療所に運んだ。が、容体は回復せず、空港から近い病院に救急車で搬送する途中、死亡した──。
空港の監視カメラには、マカオ行きの自動チェックイン機で搭乗手続きをする正男氏に、後ろから近づく2人の女が映っていた。うち1人が正男氏の前に飛び出して行く手を阻むと、もう1人の女が後ろから首を押さえ込み、毒をかがせたと現地メディアは伝える。その時間わずか5秒。「暗殺」実行後、女は小走りでその場から立ち去った。
韓国大統領直属の情報機関である韓国国家情報院は、事件直後から北朝鮮の工作員による犯行と判断。マレーシア警察は、犯行グループは女2人、男4人が関与したと見て行方を追う中、15日にベトナムのパスポートを持っていた女工作員のドアン・テイ・フォン容疑者(28)を逮捕した。
「監視カメラに映っていたドアン容疑者は、『LOL』と胸元に大きくプリントされた白のTシャツを着ていました。LOLとは、インターネットの俗語で『爆笑』を意味します」(社会部記者)
それが正男氏への手向けの言葉だったか不明だが、取り調べでも「自分はネットアイドル」「いたずらしようと持ちかけられた」などと警察をあざ笑うかのような供述をしているのだ。
翌16日には、もう1人の実行犯の女、インドネシア国籍のシティ・アイシャ容疑者(25)と、その交際相手の男(26)を逮捕。17日夜には、主犯格の可能性が高いと思われる北朝鮮の旅券を所持した男(46)も逮捕された。
韓国国情院では、5年前から北朝鮮が正男氏の殺害を計画していたと発表。北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)委員長(33)の政権発足時から「スタンディング・オーダー(必ず処理しなければならない命令)」だったという。
事実、12年に正男氏が北京に滞在していた時、北朝鮮の工作員と見られる者に襲撃されている。命の危険を感じた正男氏は、
〈私と家族に対する懲罰の命令を撤回してほしい。私たちは行く場所も逃げる場所もない。逃亡する道は自殺だけだ〉
と命請いの手紙を正恩氏に送っていた。しかし「命令」が覆ることはなく、5年越しの執念が達成された形だ。
犯行には、猛毒「VX」使用の可能性が報じられている。韓国では実行犯は、スパイ養成所で訓練を受けた「牡丹の花小隊」のメンバーだと指摘する声が強い。「活中論 巨大化&混迷化の中国と日本のチャンス」(講談社)の著者でアジア情勢に詳しいジャーナリストの近藤大介氏はこう語る。
「今までにないパターンです。これまで報じられた毒殺の方法は、旧ソ連・旧東ドイツのやり方で、『北朝鮮の』工作員が教育を受ける方法。情報漏れを防ぐため、北朝鮮人は北朝鮮人しか信用しません。容疑者のパスポートが偽造ではなく本当に外国人に実行させていたとしたら驚きです」
この日に強行した理由は、2月16日が故金正日総書記の生誕記念日に当たるからだという。75周年の今年は北朝鮮が大事にする「5年ごとの節目」だった。
「生誕記念日までに間に合わせなければ、意味がなかった。殺害は軍の警察当局から正恩氏への“プレゼント”の意味があります。そのご褒美に勲章のメダルやマンションを与えられます」(前出・近藤氏)
まさに「父の誕生日に兄の首を捧げる」ことが達成された形だが、その真相は錯綜したままである。