一回り年下の自称カメラマン
84年に「つぐない」で、85年に「愛人」で、86年に「時の流れに身をまかせ」で、テレサは日本有線大賞と全日本有線放送大賞の、いずれもV3でグランプリという史上初の快挙を達成する。酒場の主役が有線だった時代、テレサの歌は街のあちこちに息づいていた。
85年12月には日本で唯一の本格的なコンサートをNHKホールで開き、デビューから10年以上を経て「紅白歌合戦」にも初出場を決めた。
「新人賞の時もテレサは泣いて喜んだけど、やはり『紅白』に出場することは格別の思いがあったようです」
舟木は、さらに9年が経った94年10月23日、テレサのヒット曲になぞらえるなら〝別れの予感〟を味わう。結果的に最後の来日となったのは、NHKのチャリティーコンサートに出るためだったが─、
「その年の春から風邪気味が続いていたけど、この来日は直前まで点滴を打っているほど具合が悪かった。日本からスタッフが香港まで迎えに行き、それから名古屋を経由して会場の仙台に乗り継いだんです。番組のテロップに『体調不良を押して』と入れてもらったほど、テレサにしては声が出ていなかった」
こうした状態が続き、テレサはタイ・チェンマイのホテルに滞在して静養するようになる。同行したのは、テレサがパリでレコーディングした際に知り合ったピエールという「自称カメラマン」だった。テレサより一回りほど年下の、いかにもジゴロの匂いがする男である。舟木はピエールに会った時に彼が撮った写真を見せてもらったが、ただの素人にしか思えなかった。
作詞家の荒木とよひさは、ようやくテレサの新曲となる詞を書き終えた。そのタイトルは「忘れないで」であったが、テレサによって歌われることはなかった。
「また日本で歌いたいって聞いてて、ちょうど歌が完成して、僕の事務所で『よかったね』と話していたら‥‥亡くなった知らせを聞いたんです」 舟木は亡くなる少し前にテレサと電話で話した。
「今、どこにいるの?」
「タイで休暇を取っています」
「そうか、じゃあ都合のいい日ができたらタイに行くよ。レコーディングの段取りを決めよう」
それが最後の会話となった。舟木は後に、テレサの弟からホテルの廊下で倒れ、そのまま絶命したと聞かされた。その時、ピエールはチェンマイに遊びに行っていたとも‥‥。
「彼がそばについていたら、すぐに救急車を呼んでいれば助かったんだと思います」
さらにピエールは、テレサが建てた香港の豪邸を「遺産」として要求し、遺族の逆鱗に触れている。
テレサが歌うことのなかった「忘れないで」は、アグネス・チャンなど多くの歌手によって蘇った。そのタイトルのままに、テレサ・テンの歌世界は記憶から消えることはない。