男の色香にあふれ、そして、豪放な伝説を数多く残して冥土へと旅立った。その背中は「昭和最後の俳優」と呼んでも過言ではなく、奔馬のように74年の生涯を烈しく駆け抜けた男──松方弘樹。週刊アサヒ芸能にもゆかりの深い役者であったが、まだ知られざる逸話も多く、ここに「追悼」として一挙に公開したい。
〈あんた、初めからわしらが担いどる神輿じゃないの。神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや、おう!〉
日本の映画史を変えた傑作「仁義なき戦い」(73年、東映)において、松方弘樹扮する坂井鉄也が山守義雄組長(金子信雄)に向けてタンカを切るシーン。下剋上を表したシリーズ屈指の名セリフとされ、今なおサラリーマン層からも熱い共感を得ている。
松方は約1年の闘病もむなしく、脳リンパ腫によって1月21日、74年の生涯を閉じた。名優・近衛十四郎の長男という恵まれた環境に育ったが、その役者稼業は、まさしく「神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや」のごとく“反骨”と“波乱”に満ちた日々であった。
例えば、74年に渡哲也の代役で主演を務めた大河ドラマ「勝海舟」の全話終了後、こう言い放った。
「NHKはモノを作るところじゃない」
また盟友・ビートたけしが監督と主演を務めた「座頭市」(03年、松竹)についても──、
「タップとか金髪とか、外国の賞狙いを意図している。それだけが時代劇じゃないというのを我々が見せていかないと」
もちろん、“舌禍”に走るだけではない。その面倒見のよさは群を抜いていたと、東映でピラニア軍団の一員だった成瀬正孝は言う。
「僕らは『お兄ちゃん』と呼んでいて、京都撮影所の仕事が終わったら、よくクラブに連れて行ってくれましたわ。お兄ちゃんの好きなヘネシーをみんなについで歩く感じでしたね」
成瀬は、松方自身が代表作と呼ぶ「修羅の群れ」(84年、東映)で、若き日の松方の頭をナタで叩き割る役を演じた。物語の起点となるハードなシーンだが、カットがかかれば松方は松方のままであった。
「敵味方の役だけど、終わったら『飲み行こうか』で、いつものお兄ちゃんの形。5年ぶりの主演作というので、気持ちはものすごく入っていたね」
松方の主演作をもっとも多く撮ったのは、中島貞夫監督だ。一連のヤクザ映画はもちろん、時代劇や松方のプロデュース作品でもたびたび組んだ。
「弘樹ちゃんは時代劇全盛期の大スター・萬屋錦之介に憧れていた。スタッフや役者を引き連れて飲み歩くのも“錦兄ィ”の豪快さを自分の中に取り入れようとしていたね」
中島は、松方のよさを「何においてもコソコソやらない」と指摘。その1つに、松方が父親から引き継いだ「雄琴の高級ソープ(当時はトルコ風呂)経営」があった。
「釣り堀もやっていたし、ソープも堂々とやっていた。ある意味じゃ世間知らずな面もあったけど、後ろを振り返らなかったね」
中島と同様、脚本家の高田宏治も松方の傑作をいくつも手がけた。松方のサービス精神は、いつも肌で感じていたという。
「若い役者をソープに連れて行くのもそうやったし、飲み屋で打ち上げをやったら100人とか150人分を弘樹が1人で払ってたな。僕もゴルフやら嵐山の料亭やら、よう接待されたよ。弘樹は金を使って使って使い倒す。だから働かんといかん役者の典型やった」